干物箱
(十代目 金原亭 馬生)
 


まあ、世の中ってえものは面白いもんで、あのー(チッ)、例えばあの、
んーなんですねぇ、今、なんか昔のことを申し上げますと、そんなこと
ないだろうと思うようなことが随分あります。例えば、あのー若い人、
ですね。男のかたも女のかたも、そうですけれども、大変に、このー
“さっぱり”してますね。昔にないことなんですな。そら、あの、小さい
時分から、男と女というものは、うー割合に、あの、親しく付き合ってますから、
そんなに、隔(へだ)てがないんですね。この間も聞いてましたら、
「ん、どう? お前、まだ一人でいんの? そうか? 俺と結婚しようか? 」
「ダメよ、あんた。もう少し遊んでんだから。うん、そいでね、
もう少し経ったらさ、木村さんと一緒になろうって決めてあるの」
「ああ、そうか、また振られちゃった。ハハッ、まいったまいった」
なんつってるんですね。どうもね、なんか聞いてて、ふざけてんじゃないかと思うんですが、
ところがまあ当人たちにしてみれば、これ大真面目な話なんですな。もう昔は、
もう男と女と、えー、こう一緒に歩くなんたってもう大変ですからね。なるべく
人のいないところでもって、そおっと歩いて、ちょっと手ぇ握ってみたりなんかして。
ねえ、もうそれが夫婦か何かになるってぇと、なるべく離れて歩こうって
「(咳払い)もっと離れなさいよ。もっと離れなさいよ。
くっついて歩くもんじゃないよ」
「ばかだな、んとぉに、珍しくも何ともないだろ」
「離れなさいよ」
つってね、ぐーーと離れて歩いてた。
今、ご夫婦だか婚約者だか、何だかちょっと見当もつきませんけれども、
えーまあ、そういう気風になったのは、昔はもう箱入り娘ですとか、えー、
箱入り息子ですとか、一生懸命、箱ん中に入れまして、すと、そういう所に
入れて「ダメだよっ」って言ってると、余計、こうねぇ、「ダメだよっ」
て言うのは「何でダメなんだろう」と、何でもそう思いますからね。
しちゃあいけない、やっちゃあいけない、なんてーと、したりやったり
してみたくなるもんなんです。から、「いけませんよ。えっ、あれはね吉原。
吉原なんざぁいけません。いかん、ああん! いけません! 」
ってね、これ、うちの親父も、あたくしに言いましたからね。
あの、んと、不思議でしょうがないんですな。理由は、
吉原の博士みたいな顔をして、あら、もぉ色んなことをしているくせに、
セガレにはやっぱり行ってもらいたくないんですね。
「いけません、ダメですっ。コォッ。・・・・・・そんなトコ行くこたぁない」
つってね。んで、こっちは「ああ、そうかな」と。
昔の子どもってぇのは、まあ大体、あたくしぐらいの年配ってぇものは、
割合、この、親の言うことってのは聞いたもんなんですね。
今は聞きませんけれどもね。から、親が「やっちゃあいけないよ」ってえと、
「そうかな」ってんでね、うん、そいういう方面へは足を向けませんでした、
あたくしは。うー、かいって(却って)弟の方はねぇ、あら「コンちは」
「何」「行くんだ、みんなで。エヘエヘ」なんてこと言ってね、
かえってさっぱりしてましてね。自分でやってんでも、オヤジだって、
「んな、構いやしないよ」。なんか、やっぱり我々の年代てぇのは
いけませんね。そういうところがどうも。上の者(もん)に言われたらそれを
守んなきゃいけないという教育で育っちゃった。ねぇ。それから、
あー、本当に、あたくしは、ああいう所へ、えー、・・・・・・、
まるっきり行かないとは言いませんけれども、うー、まぁしかし、
ああいう所へ、こう、んー、初めて連れて行かれるのは、
自分ひとりでもって、うー計画を立てて行く、なんてぇことは、
絶対に無いですね。あら、もう、行きがかりじょうばんやもえず行くんですね。あれ、あの友だちか何かと呑んで、
「カァッ」ってんで呑んで、
「おい、行こ行こ行こ、行こ行こ行こ行こ」
「いや、あの、あたくしは、あたくしは」
「何? えっ? 知らないの? 廓(くるわ)を。へぇー、
貴重な人だねぇ。いや、ははは、まだ知ら、知らなくちゃいけない」
「いえいえ、いや、あのあの、あたくしは」
「“あたくしは”じゃないよ。来るんですよ。
面白いんだから。ちょっとお尻を押して、こっちへおいでっ」
ウワァーと連れてかれて、こんなんなって行くと、
女のほうでも、こらぁ、初めてのお客さまだなって、でもって、
心得てますから、「なによぉ、怖いことないわよぉ。怖くないったら、
なんにもしないわよ」「あぁ・・・・・・」
これが、いっぺん、その味をしめちゃうってえと、今度は、もお〜
友だちなんかとは行きゃあしませんでね、自分で、セッセッセッセッ
セッセッセッセッ、通っている。これがもう親御さんのもう悩みの種に
なっちまって、どうにもしょうがいないからってんで、うーつまり、
二階へ、こう、押し上げちゃう。下ろさない。外に出さないってえことに
なる。そうなるってえと、また、この若旦那なら若旦那ってえものは、
行きたくってしょうがない。行きたくってしょうがないんだけれども、
外に出してくれない。んと、色んな手を考えましてね、
「あのやろ・・・・・・しょうがねえな、んとぉに。えっ? 二階へ上げりゃ、
上がりっぱなしだ、下りてきやしない。たまには、おとっつぁんと
色んなハナシをしてくれりゃあいいのに。んとぉに、しょうがねえな。
うん。孝太郎や、孝太郎」
「フ ァァ・・・・・・ァァァ・・・・・・ァァ・・・・・・アア?」
「何だそれは。それ、返事か? おい、どっか悪いのか?」
「フェ・・・・・・ファハハ」
「どうもしょうがないな。ん〜、心配だよ今度は。おとっつぁん、
お前の身体のほうがな、家(うち)にばっかり居るから具合が悪いんだろ?
 あのな、どうだ。気晴らしに銭湯へなどに行ってきたら」
「エッ?! おとっつぁん、お湯行ってよぉござんすか?!」
「あーーっと、ちょちょちょちょちょっと待った! ・・・・・・ずいぶん早いね、
お前は。階段をちゃんと踏んで下りてきたのかよ。おっこったんじゃないだろね。
え、お待ちお待ち。お前はな、家(うち)を出ると兎に角、帰ってくるのを忘れちゃう。
それが一番困る。いいかい。 あのな、うー・・・・・・時計をご覧(らん)。
あのな、えー30分やる。30分だよ。30分の間、行って帰ってこられる。
女の湯じゃないんだ。男なんてもんは、そういつまでも、ぐずぐず
入っているもんじゃあない。いいかい、30分経ったら帰って来るんだよ。
分かったね? 」
「へい。ゴホン・・・・・・では、さようなら」
「んん、何だよ。早く帰って来るんだよっ」
「へぇい。・・・・・・親ってぇのは在り難いもんだね。ちょっとあんな声
出すってえと、心配をして【?だよね】これで俺が30分てぇところを
20分ぐらいで帰るてぇと、おとっつぁん喜ぶね。
「カァッ」ってんで。でもな、親父の喜ぶ顔なんて見たってな。
大して面白くないからね。ただシワが増えるだけの話だからな。
そこへいくってぇと花魁(おいらん)。ねえ。
はっと笑うってぇと片(かた)っぽだけ、ペ コと、えくぼが・・・・・・。
「あらっ」って。会いたいなあ〜。ああ、会いたいな〜。
ずいぶん会ってないからな。だけど30分かぁ。
すと、すぐ源公のところへ行って、俥やって、
あいつは速いからね。(チッ)「行けよっ」「へいっ」
吉原(なか)まで、ピイーーーっと飛ばして行って、
15分はかかるな。あー・・・15分かかって、向うへ着いて、
「おい、花魁(おいらん)来たよ!」
「あら、若旦那! 」
「さよならっ」って。
・・・・・・つまんないな、それじゃあな。なあ、俺が行って、俺が帰っ・・・・・・
あれ? 待てよ。俺が行っ(て)、俺が銭湯から帰ってきて、
二階へ上がって、そのまんまだ。ね? たら、俺の代わりに誰か二階へ
上がってりゃあいいんだ。上がって寝てりゃあいい。
何もオヤジが調べに来る訳じゃない。んまいことを考えたね。
そんなら遊びに行けらあ。う〜、ええっと、誰がいいかな。
誰が良いかったってね。(チッ)ええ? クウー、いいのがいるよ。
え? あれだよ。ね。え? 本屋の久(きゅう)さん。
久さんってぇものはね、あれはあんまり人にたかり過ぎちゃって、
それで方々(ほうぼう)から出入り止めになっちゃった。
ね。どっかに居るわけだ。家(うち)に居るだろうね。
銭(ぜに)がなくなっちゃって。きっと居るよ。ね。
方々出入り止めのね、貸本屋なんてぇもんはね、行くところなんざ、
あるわけがない。え、銭が無くなって、どっかにいるよ。
ええっと、確かね、この長屋だ。この長屋入ってって、汚ねえ長屋だね。
よく人が住んでられるね、こういうとこ。どぶ板なんぞ、
ありゃしないじゃねえか。ええ? どぶん中歩くよかしょうがない。
どぶのふちをこう歩いて・・・・・・よくケガしないもんだね。
突き当たって左っ側、ここだ。いるかな。(トントントン)。
おいっ(トントントントン)、久さん(トントントン)、久さん」
「あ・・・・・・、あの、すみません。久さんは留守ですがね」
「その・・・・・・、その声は、誰だ? 」
「ええ、寝言でしょう」
「お前、何言ってんだよ。開(あ)けなよっ」
「すみません、あの〜金が無いもんですからね、方々借金してんで、
その、金を集めに来たんでしょうけれども、何しろ一文も無いんですよ。
米屋さんでしょ? 」
「ちがうよ」
「あ、そうすか。酒屋(さかや)ですか? 」
「ちがう」
「あ? あー・・・・・・そうなんすよ。どこにも無いんですよ。
無いもんは払えないんですから」
「フッ、俺だよ、俺」
「“俺”・・・・・・。若旦那ですかあ? んーだ、孝ぼっちゃんですか。
うう・・・・・・ええ、あの、あのね、えー、入れます。
今そこへ立ってって開けようと思ってんですけどね。今もうね、何しろ、
息もたえだえに生きてますからね。あのー・・・・・・。あ、いや、
あ、開くんです。ただ開こうったって、開かないんですよ。
え、あの、戸の上のほうを二つ、数、間違えちゃあいけませんよ。
ドーンドン、叩いて。で、下のほうに、あの、
蹴飛ばしたあと、ありますね。そこを三回。え、三回ドンドンドーン
蹴飛ばして、そいで、その戸を、こう持ち上げるとカタッと上がりますから。
そしたら、あの、寝ている赤ん坊を移すような心持ちで、そおーと」
「難しい戸だね。おい。すと、開くかい? 」
「開くんすよ。ほーら、開いたでしょ。開いた。あ、いや、そうやりゃあ
開くんですよ。えー、でね、あの・・・・・・そこんとこ、このあいだ、
ボコンと何でおっこっちゃったんですかね。土間がえぐり取れて、穴が
あいちゃったんですよ。そんなとこ足踏むとケガしますから。
そこを気をつけて下さい。そ、そ、その柱は、つかまっちゃあ!
見て、グラグラしてるでしょ。それ駄目なんですよ。そういう所ね。
でね、あの、そ、そこんところ! あの」
「や(かましい?)、おい、こわいねぇ。それもいいけれども、
しどいね、え? 生きてんね」
「ええ、生きてんです。若旦那、何か食べさして」
「だらしがないねぇ。ええ? 分かった分かった。食わせるのは食わせるし、
おこづかいも遣るよ。ただね(チッ)、今日はお前に頼みたいことがあって
来たんだ」
「あえ? 何です? 」
「ん、実はね、ここんとこ二階へ押し上げられちゃって」
「そうですってね。それもあたしが悪かったんです。え、申し訳ないす」
「それがね、30分だけ時間をもらった。(ゴホン)湯へ行く時間だ。
ところがね、外へ出てみるってえと「カァッ」と、花魁(おいらん)に
会いてえんだ。ああ、たまんねーんだよ。で、源公の俥で、
すっとんでってね、ちょっと花魁の顔を見てくる間だね、俺の代わりに、
お前さん、うちの二階に上がっててもらいたい。ね。で、お前、
俺の声色(こわいろ)、できんだろ? 」
「できるんだろ、じゃありませんよ。あーたの声色が上手いばかりに、
あーたのお父さん(を)しくじったんですから。ええ、あの、
ウエハルの二階で、ふざけて、若旦那の声色を使って。そしたら、
いきなり、ガラッと開けて、大旦那が「ばか野郎がっ、
こんな所にいんのかっ。どこだ! 」「へぇ、あたしです」。
ただいきなり、ぽかっと殴られた。それっきりしくじっちゃった。
それほど良く似てんです、あたしてえものは」
「ああ、そこを、そこを頼みたい。ね。俺の代わりに二階へ上がってて。
で、俺が向こうへ行って、花魁と顔を合わして、ね。ちょいと
一杯二杯の酒を飲んで、ツーーっと、ひっかえして来るから。ね。
お前と入れ替わる、どうだい? 」
「どうだいって、あんた、あーたはいいですよ。花魁と会って一杯・・・・・・」
「まあさ、お前ね、ハラ減ってんだろ? 」
「ええ、は、はら腹減ってんです。もう三日何も食ってないんすよ。
ええ、ネズミでも掴まえて食おうと思うとね、ネズミも自分の危険を
感じるんすね。姿見せないんすよ。虫もいなくなっちゃったんすよ。だからね」
「だからさ、いいじゃん。俺の二階へ行くとね、(チッ)、今頃ね、(チッ)、
鍋焼きがコトコト煮えてますよ。からね、枕元にね、酒がある。え、うーん、
頂もんだけれどもね、洋酒もあるよ。ん? 上でもって、こんなことやって
待ってて、ね。うー、で、お小遣いやろう。どう? えーとね、そうだね、
うー10円も遣ろうか? ね。でー、お前が欲しがってた結城(ゆうき)
【おべし?】の羽織り、あれ一枚くっつけよう。どうだい、やるかい? 」
「は、やりますとも。この際、10円と、むしろ(泣き出す)」
「待ちなよ、お前だらしがないね。え? だ、じゃあね。頼むよ。
からね、えー、なんにも聞かないと思うからね、とにかく二階へ上がって、
おやすみなさいって寝てりゃいいんだ。いいかい、寝てりゃいいんだよ。
(チッ)。でね、ことによるとね、えー親父のことだからね。
聞くかもしれないことが一つあるんだ。うん。こらね、えー句会へ行ったんだ。
その句をね、えー、まあ教えてないんだよ。うーん、ことによると聞くかもしれない。
えー、巻頭巻軸(かんどうかんじく)の句ね。巻頭のほうが
「親の恩 夜降る雪に 音もせん」。巻軸のほうが、
「大原女(おはらめ)も 今朝あらたまの 裾流し」という。ね。
それを、ま、あの、言(ゆ)って、おやすみなさいと、言(い)って、
寝ちまえばいい、ね。それだけ」
「ちょ、ちょっと。あーた、ペラペラと喋ったけれどね、それ駄目なんですよ。
そういうこと間違えると、へん答弁(とうべん)になっちゃうんですからね。
ちょっとあの何か、書くものはないすか。ちょっと何か、何かで書いて下さい」
「何かに書いてくださいったって、あそこに火箸(しばし)、じゃない、
火箸の代わりにしたんだろ? その割り箸を。それ真っ黒になってるから、
それ、貸しな。これに書いとくね。「大原女も 今朝新玉の 裾流し」、
巻頭の、巻軸のほうは「親の恩 夜降る雪に 音もせん」。ね。
これでいい。ね、うー、これ持って」
「あ、そうすか。若旦那の字はね、あのー、まずいけど、よく分かるから」
「余計なこと言うんじゃない。じゃ、一緒においで」
「い、いきますよ。あ、あ、若旦那、手ぇ引いて下さい」
「だらしがないな、おい。え、早く早く早く早く。・・・・・・さあ。ね。最初に俺が
声をかけるから。ね。そしたらお前が声をかけて二階へ上がっちゃう。
分かったね」
「ええ、分かりました。分かりましたよ」
「じゃあ、いいかい。俺は声をかけるよ。ふら、ふらついてるんじゃないよ。
おとっつぁん、只今もどりました」
「孝太郎か、はやいな。まだ10分かかってない。へぇー、そうかい、
そうやって早く帰(かい)ってくりゃ何もおとっつぁん、お前を二階へ
上げっぱなしにしとくわけはないんだ。うー、さ、湯ざめするといけないから、
早く寝なさいよ」
「へえ、おとっつぁん、お休みなさい」
「おやすみ」
「・・・・・・さあ、お前の番だよ。お前だよ」
「ちょっと若旦那、聞いてください。10円と羽織だけの値打ちはあるんですから。『おとっつぁん、おやすみなさい』」
「はい、おやすみ」
「・・・・・・どうです、あるでしょ。ええ? 『おとっつぁん、おやすみなさい』
・・・・・・どうです。ね。『おとっつぁん、上手いでしょ』」
「何が上手いんだい」
「・・・・・・バカっ、余計なこと言うな」
「あの、あと五円増やして」
「このさい、こんなところでもって。いいよ。五円増やすよ。早く二階へ
上がんな」
「上がります上がります。・・・・・・おやすみなさい。おやすみなさい。
おやすみなさい。はっ、あーー、兎に角ね、いい部屋だね。どうでもいいけれども。
ね、うん。この布団だって上等だね。何も花魁とこの、あんな汚いとこの
行きたがることはねぇんだよな。うーうん。なるほど。え。
鍋焼きがコトコト煮えている。ね。ありますあります。いいね。
銀の、ね、こらね、なんてぇんだろうな。うーん、よくね、お殿様が
びゃっと飲んでるやつだね。買ったのかな、もらったのかな。
え、湯呑みで頂きましょう。ね。ぐーーっと、ええ、
湯呑みで頂きますよ。うん。あー、久しぶりだな、酒は。【呑む】うっ、
痛い、うー胃袋が怒ってる。悪かった悪かった。悪いわるい悪い悪い悪い。
よしよしよしよし。いー、分かったよ分かったから。怒んな怒んな。
今ね、(オホン)、鍋焼きをちょいとね、鍋焼きなぞ、ね。
だからさ、おこ、怒るな。怒るなって。(フーフーフーハーズルズルズルー)、
ああー、よしよしよしよし。うー、これで、いいんだな。これで少し、大人しく
あとで食べるから、大人しくしろ。(チャッ)あー、うーう、旨いねえ。
あーあ、しかし何だな、若旦那うれしいだろうね。久しぶりだからね。
ええ? 源公の俥に今ごろ乗って、どのへん走ってんだろな。
また源公の俥ってえのは速いからね。おっちょこちょいだからね。
若旦那がすぐ「カッ」って、けしかける。
『おい、源公、おめえにゃあ、あの俥、抜けねえだろうナア』。
なんてこと言うんだ。『何言ってるんです。冗談言っちゃいけませんよ。
あらよっ、ダァッ、えーーい、あらよぉっ』って声かけるから、
前の俥、びっくりして、立ち止まるところを、
『あららららい! ダァーー』って、上手いんだ、アレがね。
あの声が驚くからね。『あらよっ、アエーーイ!』」
「・・・・・・なんだい。なんの声だ、あらぁ。お前、それ、こ、孝太郎か? 」
「あっ、おやすみなさいまし」
「おやすみなさいじゃない。うるさいねえ。どうでもいいけれども。
え? あー、お前起きてたら、ちょいと聞きたい事もあるんだがね。
えーちょいとね、えー、聞きたいんだがね」
「いや、おや、おや、おやすみなさい。おや、おやすみな(さい)」
「うるさいねぇ。じゃ、静かに寝なさい」
「危ないとこだった。何であんな声出しちゃったんだろうな。
だけどな、向こう行ったら花魁も、あれなんだね、商・・・売じゃないね。
商売を離れて、若旦那を好きなんだね。うん。しみじみとした顔を
するからね。うん、あれ、若旦那が向こうへ、つぅっと行って
『来たよっ』てえと、どんな顔するんだろうな。
『あらっ、まあ、どうしたの? 』
『“どうしたの”ったって。え? こういう訳で、久さんを二階へ上げて、
俺ぁ、来たんだよ』『まあ〜よく来てくれたわ。ねえ、さあ、今夜は
泊まってってくれんでしょ?』『そうはいかねぇんだ。久蔵が二階へ・・・・・・
俺の身代わりだ。俺はお前と話をしたら、すぐ帰んなくちゃ』
『んー、いいじゃないのよさ。せっかく久しぶりに会ったんだから、
今夜、泊まってらっしゃいよ。いいじゃないのよさあ。
あんな久蔵なんて』・・・・・・言いかねないね。言(ゆ)うね。きっと。
きっと言いますよ。『良いわよぉ、あんな、あんなの、いいじゃないのさあ。
あんなの』・・・・・・“あんなの”、あんなのと来ると、若旦那も危ないよ。
『だけどさア、あれだって、人間なんだからね。うーん、可哀想だよ』
『いいわよぉ、あんなの死んじゃったって』ーーて・・・・・・言いかねないんだねえ。
それで若旦那が「帰る」なんてえと、得意の得意の鼻声で、
『いっじゃないのよさァ、ねぇ〜若旦那ァ。ねぇ〜〜よぉ〜〜にゃぁ〜お! 』」
「・・・・・・猫だね、まるで。おい、孝太郎や」
「あっ、おやすみなさい」
「お前うるさくてしょうがないな。えっ、起きてたんなら聞きたい事が
あるんだがな」
「え、あの、お休みなさい」
「お休みなさいじゃない。ええ? うるさくてしょうがない。え、お前、
この間、句会へ行ったな」
「え、え、え・・・・・・へ、へい、あの、行きました」
「うーん、えー、あの時の句、巻頭巻軸の句を、おとっつぁんに、お前、
話をしてくれなかった。どんな句が抜けたか、ちょいとおとっつぁんに
聞かしとくれ」
「・・・・・・へいっ、あ、あれ? 半分消えちゃったよ、おい。こら、大(変)、
いや、読めることは読める。あのっ、あの、かんどうの、かんどうのほうです」
「うん」
「おや、お、おや、親の恩。恩、おん、ん、よ、夜、夜降る雪に、音もせん。お休みなさい」
「なるほどな。『親の恩 夜降る雪に 音もせん。おやすみなさい』。おい。
お休みなさいを続けて言うんじゃない。巻軸のほうは? 」
「なんでござんすか?」
「巻軸は? 」
「あの〜卵ですか? 」
「ばか、半熟じゃねえ。巻軸だ」
「あの、そらあの、お、おはら、おはらめ、も。「も」です。けっ、今朝、
今朝あら、あらら、あら? ・・・・・・なんだ消えちゃったな。あっ、あらた、あらたまの、の、のす、そすそなが、がし! 」
「読んでるようだな、お前は。ええ? 変なこと言ってちゃ困る」
「おやすみなさい」
「それから、もう一つな」
「知らない。【あっただけだよ?】あの、おやすみなさい! 」
「おい、お休みじゃないよ。え、お前なんだな。うー、いい話をして。今日、なんだ、あの神田(かんだ)のおばさんが来たな」
「し、知らないよ。そういうことはね。そういうことを言っといて
くれなきゃいけないんだ」
「あの、おやすみ」
「お休みじゃないよ。おばさんに会ったな」
「ええ・・・・・・」
「お前、話をしてたじゃないか。どんな話をしてた? 」
「いや、あの【言語不明】っていうのは【言語不明】です! 」
「何だかちっとも訳が分からない。あの時、なんだ、おばさんから何か
もらったな」
「・・・・・・あの、もらいました! 」
「ん? 何をもらった」
「【言語不明】・・・・・・です! 」
「お前、急に言葉が分かんなくなる。え? なんか干物みたいなものを
もらってたな」
「ひも、干物です。誰が何と言っても干物!! 」
「誰も何とも言ってやしないよ。そうか、干物か。うんうん。
何の干物だった? 」
「・・・・・・お魚の干物で」
「ばか、野菜の干物てえのがあるか。魚は分かってますよ。ええ? 何の魚だ。大きかったな」
「ええ、あの、マグロの」
「マグロの・・・・・・そうじゃない、もっと小さいもん」
「どじょう」
「お前ね、いい加減にしなさいよ。え? ま、それはいいとしてな。
あのー、お前、その干物はどこへしまった? 」
「大丈夫なところへしまいました」
「どこだ? 」
「あの、箱です」
「おお? どんな箱だ」
「え、あのーー四角い箱へ」
「まあるい箱てえのがあるか。え、四角い箱は分かったよ。どの箱だ」
「え、あの下駄箱」
「げたばこ? 」
「いや、あの〜、つまり、あの、干物箱」
「干物箱? そんな箱は、うちにはなかった。え? うー、
お前、ネズミいらずへ入れたんじゃないか? 」
「え、ネズミいらずです! お休みなさい」
「おい、ちょっと待ちなよ。何かさっきから台所からガタガタしてんのは、
あらぁ、ネズミいらずにネズミが入った。いや、お前、知ってるだろう、
あれは。え、網が破けて薬(やく)を足してないんだ。
お前ちょいとな。おとっつぁん、その干物を見たいからな、おとっつぁんの
枕元に、その干物をちょいと持ってきて、見せとくれ」
「おとっつぁん、お休みなさい」
「いや、お休みじゃない。寝る前にちょいと、おとっつぁんの枕元へ持っておくれ」
「んーん、おとっつぁん、あの、おなか、おなか痛いんす。おなか。へえ。
ですからお休みなさい」
「腹が痛い。そらいけないね。んとうに。あんまり早く帰(かい)って
来すぎたんだ。あー、そうかそうか。よしよし、えー、そいじゃあな。
今、おとっつぁん薬を持ってってあげる」
「あの、治りました! 」
「なんだよ、治ったのか? 治ったんならな、干物を持ってきてくれ」
「また、痛くなりました」
「しょうがないね、本当に。ええ? 「無い子には泣きを見ない」てえが、
全くだよ。死んだばあさんが羨ましい。あーあ、本当に、どうしてな、
こういうこと」
「・・・・・・上がってきた! 上がってくるとなると逃げ場がないんだ、
ここは。そー、あー、この、このおとっつぁんてえ、
どういうわけだか、柔道ができて相撲が強い。とうてい敵(かな)わないよ。
二階からほっぽり出されたら、あたしは生きちゃいられない。えーと、
とにかく布団を、かぶって!」
「はいはい。や、おい、孝太郎や。孝太郎。クスリ持ってきたから、
飲みなさい。あ、なんだい、お前。布団を頭からかぶるんじゃあないよ。
ほら、足が出て・・・・・・汚い足だね。湯ぃ行ったのかい、それ。
おーお、ケツっぺたにまあ、般若の面なんぞ彫りゃ・・・・・・、
何故そういうことをするんだ。親不孝な・・・・・・。まあ、その小言は後でしよう。
え、湯なんぞ行ったのかどうか分からない。え。こんな汚いをして。
ほらほら、起きな。ほらっ。うわっ、・・・・・・お前おとっつぁんに
逆らおうってのかい? お前なんぞ負けるもんじゃない。
こっちィ、起きなさい! 」
「あ! はっ 」
「お前、お前は、久さん」
「えへっ、おとっつぁん」
「何が、おとっつぁんだ。お前のほうが年上じゃないか。ははあ、
さっするところ、うちのバカやろうに・・・・・・」
「え、実はおたくのバカやろうに」
「何がバカやろうだ、お前さんまでバカやろうって言うことない。何しに来た!」
「あの、明けましておめでとう・・・・・・」
「夜中に年始(ねんし)に来るやつがあるか」
「・・・・・・おい、おい・・・・・・。久さん、財布を忘れちゃった、財布を。
二階から放(ほ)っとおくれ。違い棚んところにあるから。財布を忘れた」
「情けねえヤロウだ。財布を忘れて取りに来やがって。ちきしょう。
親の恩を知らないで・・・・・・。この、バカッ!!!!」
「ああ、久蔵、うめえな。親父そっくりだ」

 

 1981年10月2日、本牧亭にて収録。コロムビアよりCD発売

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巻頭巻軸(かんどうかんじく)の句は、

巻物の冒頭に持ってくるような、巻物の軸(重要な中心)となるような、

ともに優秀な句のこと。先生に選び抜かれることを「抜けた」と言う。

はじめに言った巻頭巻軸の句と、二回目に言った句が

逆転しているところが惜しい。


ただ、志ん生(父)と志ん朝(弟)の「干物箱」の

中間に位置する、大変素晴らしい貴重な音源だと思います。
 

胃袋を擬人化している場面は妙にリアルで、彼のオリジナルでしょうか。

「誰が何と言っても干物! 」は、

言葉は違いますが、志ん朝さんも使ってます。
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