落語「王子の狐」
十代目 金原亭 馬生
(きんげんてい ばしょう)


@このページにある落語テキストは、HPの管理人が、
 落語の音源を聞き取り、独自にテキスト化したものです。
A聞き取れなかった箇所は
【 】としてあります。
B音源は、昭和42年11月15日東京落語会で録音されたもの。38歳の高座。「NHK落語名人選22」(CD)に収録。
C『馬生集成』(本)に載っているものとは別バージョン。


 江戸時代というのは、割合と、この人間がのんびりしておりまして、
まあ、なんと申しますか、何かことがあると郊外へ出ようという、
もっとも、今でも郊外へ出かけるというのは、え〜まあ、
大変な楽しみの一つでございますけれども、
江戸時代の郊外ってぇっと、今の本当の繁華街が、郊外でございますな。
その時分の年中行事の一つに、ま、初午(はつうま)なんてぇのが、ございます。
こらあ、まあ、この、王子のお稲荷様へお参りに行くという、
こらあ、まあ、今、王子と申しますってぇと、本当の繁華街でございますけれども、
江戸時代には、まあ、あそこまで行くってぇと、郊外でございまして、
『本郷も“兼安(かねやす)”までは江戸の内』
と言われた、本郷三丁目。こっから先は、もう、江戸じゃぁございません。
この本郷から行く道と、それから、【根岸】から行く道と、道が二通りございまして、
本郷の方から参りますってえと、只今の東大の前を、こう通りまして、
追分(おいわけ)から、駒込の吉祥寺の前を通りまして、
「駒ごみ」。駒ごみと言ったそうですな、今の駒込を。それから、あ〜それを、この、
下りますと、霜降り橋。滝の坂という坂を上りますと、これから王子へかかって参りまして、
飛鳥山の下を通って王子へ行くと。これが、まあ本郷の口でございます。
【根岸口】と申しますと、今の鶯谷ございますな、あの国電の。
あそこのところを、川が、丁度今の国電の通りに流れておりまして、
これがまあ、
音なし川と言われた川で。この川の淵をず〜っとたどって行きますと、王子まで参ります。
これはまあ二つ道があったそうで…。その時分にはその時分らしいお話ができておりまして。



「おどろいたねえ、こりゃどうも、え? ふだんね、初午(はつうま)に来るときは、こんでやがる。
人がぞろぞろ歩いてるのに、一日遅れるってえと、し〜んとして、人っこ一人通ってない。
え? か〜、やなもんだね、真っ昼間、人がいねえってえのは、薄気味悪いね、却って暗いほうが
恐くねえな。やだねえ。
今日はな、おばさんのところへ行って、「おい、おまえ、昨日、王子へ行ったかい? 」
と言われて、「あ、忘れた! 」「お前はそういう了見だから」ってんで散々怒られちまって、なあ。
一日遅れで来たことはねえけれども、こう寂しいとは思わなかったね。人っ子一人通らなくて
し〜んとして・・・何だ、犬じゃねえな。狐だよ、おい。大きいねえ。
【稲叢(いなむら)】の陰からこっち見てやがる。
どうすんだ、ああ、何かしようってんだな。頭に草のっけて、
おうっ、ひっくり返った、いい女に化けやがったな。はあ〜誰か化かそうってんだ。
うめえところ、見つけたね。人を化かすところ見よ、見よ。見よ・・・俺しかいねえ。
俺を化かすんだ。おどろいたねえ、こりゃ。い、いや、いいところ見つけといた。な、
お互い狐だと分かってりゃ、こっちは化かされりゃしねえ。ようく眉毛に唾をつけておいて。
どうしようかな、こっちから声をかけてやろうかな、どうせ騙されるんなら、な。
何て、名前にしようかな。おコンちゃんじゃおかしいな。おコン…一つお玉ちゃんといくかな。
…お玉ちゃんじゃないかい」
「あらあ、兄さん」
「…調子がいいな。ぉお、お玉ちゃんじゃないかと思ったんだよ。
はあ〜、綺麗になっちゃったねえ。いい娘さんになって。おっかさんお元気? 
ああ、よかったねえ。
宜しく言っといてくださいまし。ええ、いや、お玉ちゃんとは、
こういう小さい時分に会ったきりだったけども、
へえ〜娘さんってぇのは、器量が良くなるもんだね、変るもんだね。これからどちらへ? 
え、う〜王子へ行こうと。え、一緒に行きましょう。ご一緒に、えへっ。
はあ〜。…ごほん、何ですな、どうも、実に何とも言えない、どうも、お姿で、どうも。
へえ〜。あ、そうそう、あれっきり、おっかさんお元気ですか。ああ、そう。
あ〜たは、まだ、お婿さんもらわない? ああ、こんな綺麗な女をね、
一人にしておいたんじゃいけませんよね、
ほんとうの話が。えへん。おほん。ええ、うん。兎に角、何か話しませんか。
え、いや、何か話すことあるでしょう。私一人に喋らせないでさ。あ、そうそう、
久しぶりだから、何か、こう、ちょいと、なんですな、ん〜おつなものが食べたいですね。
ええ、いいじゃありませんか。ま〜たまには私にも奢らせてくださいよ。え、そうそう。
ちょうどね、お参りする前にね、ここでもって、ちょいとご飯を食べましょう。
扇屋さんで。いいじゃありませんか。さ、あたしが奢るから。
遠慮しないで。まあ、あなたと私のことですから、おっかさんに知れたって怒られる気遣いはない。
本当に、いいじゃありませんか。そうそうそうそう、ここに入りましょう。
ちょ、ごめんよ」
「いらっしゃいまし〜」
「おう、あのね、え〜静かなところ空いてるかい」
「お二階へどうぞ」
「お二階、さあさあ、いや、あ〜たが、先、あ〜たが先ですよ。貴女が先じゃないと
何となく落ち着きませんから。後ろからがぶり…いや、うん、ずっと上がってください、
はあ〜どこに隠しちゃったんだろうね。
見事に…、いやいや、こちらの話。そんな失礼なことは申しません。え、どうぞどうぞ、お上がり。
え〜ここのお部屋ですか。ここのお部屋ね。ああ、けっこうですな。
ここのお部屋、どうぞ、いや、あ〜たはね、床の間に座んなきゃいけない。床の間にね。
入り口に近いほうはわたくしが座る…。いざというときは。ごほん。え〜ねえさん、あのね、
え〜っと、そおね、
とりあえず、お銚子を持ってきてもらおうかな、お酒を。そうそうそう。
それからね、食べるもんだがねえ、あの〜お玉ちゃんは何にします? てんぷら。てんぷらねえ、
揚げたもんがええんですがな。こちらにてんぷらを。わたくしほうは、ひとつお刺身かなんかを
いただきましょう。そうそうそう。あとは、そちらに全部お任せしますから。万事万事。
あった! ぴったり閉めないで。人が一人通れるくらい開けといて。
え〜ちょっと、う〜蒸し暑いもんですから。ええ、まあなんとなく。
(笑いながら)んなことまあ、どおでもいいんですよ。
いやあ、しかしねえ、お玉ちゃんとここで一緒にご飯が食べれよおとは思いませんでしたなあ。
いや、ほんとうに。世間は広いようで狭いもんでね。どうなすっていらっしゃるのかと思ってね、
あたしは、大変心配してたんですよ。(すぱっ)・・・え? 煙草は、困る? あ、煙ですからな。
煙はいけません。これは心づかないことをいたしまして、・・・ああ、来ました、来ました。
さあさあさあ、お刺身はこっちにしてくださいよ。えっとそっちはてんぷらで。
さ、ひとつ行きましょう、ひと【口】。いいじゃありませんか、わたしのお酌で美味しくない
でしょうけど、やってください。え? いいですよ、あ〜た、なんですよ。ね、ですからさ、
ちょいと真似事だけさしてください。真似事。(酒を注ぐ?)やれますよ、
お酒なんてェものはね、誰だって呑めんですから。
見事ですね。きゅ〜〜といきましたね。いや、もう一杯。ま、その呑みっぷりなら大丈夫
、大丈夫大丈夫。んなこと、気にしないで、あたしが付いてますから。酔いつぶれたって
あたしが介抱いたしますから。え〜悪い介抱はいたしません。いえ本当に。安心してやってください、
「きゅ〜」掛けつけ三杯です、もう一杯。もう一杯。大丈夫ですからお上がりなさいってんですよ。
そうすか?(もういい、と相手が断った?)
イエあたしは手酌でいいんですよ。もう手酌に限りますから。ね。え〜手酌手酌、と。
・・・ここはどこだい。ここは。ここは、扇屋ね。お料理やさんですよね。原っぱじゃねえだろな
ここはな。大丈夫。(つねってみる)うふふ、つねってみたけれども大丈夫という。
…これも本物の酒だろうな。
ぺちゃぺちゃ。あ、本物だ。あそうそう。(酒を呑む?)あ〜本物本物。上手いですね。
・・・お刺身は本物だろな。
一応うたぐってみないことには、ね。うん…うん! まさにお刺身。か〜うたぐり深い? 
いや〜、あたしはね、どうもねえ、人様をね、大変うたぐる性質なんですよ。
へへ、どうも。え〜兎に角ね、あ〜たとここで会ったということは嬉しいね、どうも、いや〜
おっかさんにも、あたしは世話になりましてね、(ぐいっ)は〜、兎に角おっかさんにも
会いたいなあ。お元気でいらっしゃるでしょうね。ええ。(ぱくっ)あなた…、
どうしたんですか? あなた。えっ、なんか、こうほんのりキツネ色いやあのいやあの(ぱしッ※自分の顔を叩く)
桜色になりましたよ。気分が悪いんですか? 気分が。こらいけませんね。
無理に呑ました私が悪かったな。あ、横になりなさい、遠慮しないで。煙草盆をこうマクラに
横にして。すっと。大丈夫大丈夫、帰るときは起しますから。え、もう、ひと寝入り、スゥっと、
僅かな間でも寝るとね、え〜治りますから。どうぞどうぞ。遠慮なく、いやまあ、
遠慮しちゃいけません。あたしとあなたの仲ですからね。けして遠慮無しということで。
(ぷは〜)楽しいですな。本当に。こういうことはね、ちょくちょくなくちゃいけません。
(ぱくっ)人間というものは、こういう楽しみがあってこそ。ね・・・お玉ちゃん。お玉ちゃん。
凄いいびきだね〜おい、『がーごー』ときたね、こら。お玉ちゃん。…おコンちゃん♪
寝込んだ、寝込んだ。この内に逃げ出そうっと。はああ〜あ。見つからないうちに、そおっと
階段を…下りて…」
あ、もうお帰り?! 」
「し〜〜ツ」
「あの! 」
「あ! しっ! 大きな声しちゃだめ」
「あの、何かあるんでございましょうか?」
「何かあるんじゃないよ。いま、家内が寝てるんだ」
「はあ〜左様でございますか」
「うちの家内はね。途中で起こすと、ばあっと飛び上がったりなんかするんだ」
「…飛び上がるんですか? 」
「そうなんだよ。だから起しちゃいけないんだ。ちょっと俺ね、用を思い出したんだよ。
用を思い出したんだけれどもね、家内を途中で起すと、飛び上がるだろ? 見境なく人に飛び
かかってくるからね。…こりゃいけないからね。寝かしておくから。いいかい? 
あの、途中で起さないようにね。起して飛びつかれたら、わたくしは知らないからね」
「い、いやですね。起さなきゃ大丈夫なんですね? 」
「でね、家内が財布を持ってるからね。お前さんたちに、祝儀や何かもちゃんと心得ているからね」
「(笑顔で?)左様でございますか? どうも、あいすいません。有難う存じます」
「いいんだ、いいんだ、そんなことは。ええ。…(思いついたように)お土産が欲しいなあ。
板前さん、何かある?
え? うん、旨そうな、ナンじゃないか、【口取り】あるじゃないか。卵焼き。
それをこっちに回してくれ。…ありがと、ありがと、すまないね。
あ、女中さん、うちの家内にもそう言って。あとで、板前さんに、余計に【捻った】ものを上げる
ようにね。うう〜そうそう、万事ね、お前さんの口利きでね。頼むよ。じゃ、あとでもってね、
家内が万事心得てるから。(卵焼きをもらう?)そうそうそう、板前さん、済まないね。
それとお土産に持ってくから。どうもありがと。ごちそうさま! さよなら」
…ってひどいヤツがあった【もんで】。お土産もって、ぶ〜っと帰っちまった。
そんなことは知りませんから、
「本当にしょうがねえなあ。え? なんてったんだ、あのお客は。うん、家内を途中で起すと
飛び上がって飛びつく? んなこと言ったって、しょうがないよ。うちは宿屋じゃないんだから。
え? 一番いいお座敷をそうやって昼寝の所に使われた日にゃ商売(しょうべえ)にならねえや。
うん、っとおにしょうがねえなあ。途中で飛び…・・・二階でコトコト音がするじゃねえか。
え? 起きたんじゃねえのか。ちょいと行ってごらんよ。」
「あ、そうですね、音がしてますね。いっぺん行ってみますから。…あのお、お目覚めで
ございますか? 」
「あ…どうもすいません、あの、つい寝過ごしちゃったもので。…あのぉ、連れはどうしたで
ございましょぉ、か」
「はい、お先にお帰りになりました」
「(低い非難めいた声で)あらあ、人をこんな所に置いて帰っちゃうなんて…。
本当に薄情な人。で、あの、この勘定は、どういうことになってましょぉか? 」
「あっ、はい、貴女から頂くように」
「え?! 」
キツネは驚いた。キツネじゃなくたって驚きますよね。これは仮にわたくしだって飛び上がって
驚きます。
こう、何となくぼ〜っとしているところへ、勘定はあなたから! と言われたから、
あ! と驚いたとたんに、化けの皮がはがれてしまった。きれ〜に、こう、撫で付けてありました
鬢(びん)が、『ぽーん』と前へでるってえと、耳になった。顔が『きゅ〜っ』と、とんがらかって、
口が『す〜っ』と裂けた。格好良く結んでありました帯が解けると、『ぱた〜っ』と、【こう、】ふっとい尻尾が
出て、
「(動揺した声で)そうですかぁ〜」
立ち上がったから、驚いたのは女中さんで
わあ〜〜〜〜〜〜〜ッ
「おい、何てェ騒ぎをしてるんだ。【第一】おい、扇屋の女中が、お前、
階段から落ちる奴があるか。
まった(く、と言えず?)どうした?! 」
「(うろたえて声にならない)たたたたたたた、たたたた(大変と言おうとしている?)」
「しょうがねえな、おい、ちょちょちょ、水持って来てやんな。口が利けない、口が。
口が利けないとしょうがない。え、どうした。よく落ち着いて喋んな。うん。二階に?
…狐。おい、本当か? うう、おい、みんな集まってくれ。みんな集まってくれ」
「何ですか? 」
「何でござんすか? 」
「ちょっと、みんなね、そっちの仕事は後でいいから。男だけでいいんだ。女はいらない。
男だけね、こっちぃ集まっとくれ。実はね、今ね、二階に狐がいるんだ」
「ええ〜〜、狐がおりやすかい?」
「ああ、いるんだとよ。そいで、狐が夫婦で来やがった。雄ギツネの方は帰って、雌ギツネの方は
二階にいるんだ。ね、ね。…大体ね、旦那の留守にね、そんな狐かなんかに食い荒らされたんじゃあ
ね、留守を預かってる番頭のあたしとしたって、面目ない。ひとつ狐を退治しよってんだ。
いいかい、みんな、それぞれ支度しておくれ。」
「そおですか。え〜、狐というものは、あ〜、どういうものが一番恐いんですか?」
「んなこと、知らないよ」
「じゃあ、どうしましょぉ?」
「どうしましょぉったって、何でもいいから、ひっぱたいて、叩っ【殺】したらいいんだよ。
じゃあ、みんなね、めいめい、その、心張り棒でも何でもいいから、棒持っとくれ。いいかい? 
いいかい、じゃあね、そぉっと二階に上がってくから。じゃあ、おめえから先、上がれ」
「いや、どうぞお構いなく。あの、お先へどうぞ」
「なに言ってんだよ。おまえが先に上がれってんだ」
「どうも、あたくしは、その、何でございまして、ええ、あれでございまして。
そうでございまして。何でございますな」
「何言ってんだ。いいよ、じゃあ、後から上がっとくれ。じゃあ、あたしが先、上がるからね」
番頭さんも、この、責任を感じまして、か〜っと向こっぱちまき【鉢巻】をするってえと、
尻を端折って、六尺棒を持つってえと、さ〜〜っと二階へ上がって行く。狐の方は、もう床の間の
とこで考えている。
「どうしよう…」
どうしようかなと、考えているところへ、
「いいか、【ひのふのみ】で、飛び込めよ。【ひのふのみ】ッ」
…と、飛び込むってえと、六尺棒で、パア〜〜ッと、ピュ〜〜〜っと逃げる。
「そっちへ逃げたッ」
パア〜〜ッ こっちへピュ〜〜〜ッ。
狭い所でございますから、狐の方だって、なかなか上手く逃げられない。
ポカポカポカポカ殴られまして、もうあと一息でやられるっというところへ、来たときに、
最後にブ〜〜ッ。
…ってやつをやりましてね。これがまた、大変な臭いで…。
「あたっ…! 」
「驚きましたね」
「え? ああ、鼻が曲がるかと思った」
「涙が出てきましたな」
「あ、狐逃(に)がした。」
「ああ、あれですな、どうも」
「あれならしょうがないよ。逃がしちゃったって」
「どおも目に染みますな、こりゃどうも…」
おおい、この家(うち)は誰もいねえのかッ
「あ! 旦那が帰って来た」
「しょうがねえな、いったん謝らなきゃ」
「どうも、旦那、お帰りなさい」
「お帰りなさい」
「旦那、お帰りなさい」
「お帰りなさい」
「お帰りなさい」
「何をしてんだ、お前達は。うちは料理屋だぞ。え? てんでんに向こう鉢巻をしやがって。
尻を端折って、六尺棒持って、一体何の真似だ」
「うう…そりゃ旦那、お怒りになっちゃ困ります。実はね、狐が夫婦(めおと)で来ましてね。
雄ギツネの方はすぐ、帰って。雌ギツネの方は食らい意地が張ってやって、がぶがぶ呑みやがった
らしくて、
寝てるんですよ。それを見つけましたんでね、うちじゅうでもって、か〜ッ(殴る真似?)
もう一息でやれるってえところへもってね、ブ〜ッというやつでね、
こういうことになっちゃいましてね。
えっへっへ…
ああ、残念なことをしまして」
「何だ? もう少し前へ出なさい。お狐さまを殴った? 何でそういうことするの」
「いや、あの、食い逃げ…」
「おい、番頭さん、冗談言っちゃいけない、考えてごらん。うちは何のために、これ商いが
成り立ってる?
王子のお稲荷さんがあるからこそ、この商いが成り立ってくるんだよ。
もし、お狐さまが夫婦(めおと)でいらしたら、何故、ご馳走をして、お土産を持たして帰さない。
それを、大勢で殴るだなんて。誰だ、殴ったのは?! 」
「ごほん、う〜いや、殴りゃあしません(消え入るような声で)」
「お前が殴ったのか? 」
「いや、あたしは殴りゃしません」
「じゃあ、その棒は何だ? 」
「この棒は、何でございますな、この〜、ここから、お狐さままでどのくらい、この〜
あるんだろうってんで、こう測って…」
【うざってえ】もうしょうがないよ。そうやった以上。兎に角今日はもう店は終い。
お詫び参りだ」
信心深い主(あるじ)でございまして、店を閉めてしまうってえと、油揚げを山の様に積んで、
店の者を連れて、お詫び参りで。

こっちは、狐を騙したヤツで、いい心持ちで帰って来た。
「こんちゃぁ。おう、いるかい? 」
「お〜ぅ、珍しいね、半ちゃん。何だね、昼間っから赤い顔して。え? 何だい。
「官費(カンピ)かい? 」
「えへっ、コンピ」
「何だ、コンピってえのは」
「ひっ、おもしろいはなしがある…あ、その前にね、これお土産だ。
王子の扇屋の【口取り】だ。旨いよ。子どもに食わしてやりな」
「そうかあ、すまねえなあ。度々…じゃあ、もらうぜ。ありがとありがと。
(お上さんに向って?)おう、半ちゃんが
おごったよ。扇屋の【口取り】だ。安かあねぜ。いきなり開けんじゃないってんだ。
お前、何でもすぐ開ける。え? まず仏様に上げるんだ。返したら坊主に食わしてやれ。
な、何だよ今日は。うん? ふうん、そうかぁ、ふんふん、それ、化けてんの見たの?
へえ〜〜、ふん。それからどうした? はあ〜、連れ込んだ。料理屋へ。おめえ、度胸がいいなあ
、うん。で、無理に呑まして。で、あのお土産もらって帰って来た。……あ…、勘定はどうなった?
え? 狐が払うでござんしょ。おう、ちょっとあの、その、あ〜仏様によくお詫びを言って
お持ちしな。こっちィ持ってきな。んやんや、さ、これ、おめえに返す…。持ってけえれ」
「な、なんで」
「何でじゃないよ。お前、王子へ何しに行ったんだ。おめえ。お参りに行ったんだろ? 
で、お参りしてけえって来たか? 」
「あっ、お参りしないで、けえって来た」
「な、おめえがな、さみしい、【根岸口】を
一人で歩いてるのを見てお稲荷さんだって、寂しいだろってんで、お使い姫(しめ)を
お前の相手に寄こしてやったんだ。それをそんなところに連れて騙しやがって。え?
もし見つかったら大変だぞ。な、この狐め! ってんで、(パンパン※手を打つ音)
殴られて、そういう狐だ。な、
捕まって殺されるようなこたあねえけれども、痛められるのは、こいつぁ、分かりきった話だ。
え? これからおめえ、家(うち)に帰ってごらん。その狐が待ってるぜ。え?
おめえなんざ、すぐ又裂きだ」
「又裂き…(消え入るような声で)」
「足と足をピシッと裂かれて、なあ? おめえの上さんなんざ今ごろ、さんだらぼっち頭に
乗っけて、ホウキかなんか持って、てけ、てすく、て♪ てけて♪ …踊ってるよ」
「よせよせ、よせよ。そ、そんなこたぁねえだろぉな? 」
「知らないよ」
「おい、やだなあ。どうしよう」
「どうしようって、てめえが、狐を化かそうだなんて、そういう了見を起すからいけねえんだ。
え? 兎に角、これから行って、お詫び参りして来い」
「お詫び参りってったってよ、これから行くと夜へかかるぜ、おい。え? それをおめえ、
俺一人で行ったら、この野郎だって、みんなでよってたかって、俺をピイっと裂きゃあしねえかな」
「そりゃあ、裂かれるかもしれねえなあ。う〜ん、いっぺんぐれえじゃないよ。
スルメみてえに、細か〜に裂かれるかもしれない」
「やだなあ、(涙声になり)兎に角、俺、お詫び参りしてくるっ」
「ああ、してこい、してこい」
「うう…」
この野郎は友達に脅かされまして、何か、この店屋で買いますってえと、こいつをぶらさげて
王子へやってきた。
「ああ〜〜、(ぶるぶるぶる)あわあわあわ〜〜〜〜〜やだなあ、驚いたなあ、ああ。
段々暗くなってくるしなあ。…うわあぁ! あ。犬か。あ〜驚いた。んも、こんな恐い思いしたこと
ねえな。ああ、やだな。…あっ、そうだ。肝心のあの狐の居所聞くの忘れちゃった。
どこに住んでるんだろな。こういうことなら、穴の番号でも聞いときゃ良かったな。
弱っちゃったな、これ。どこの穴…兎に角な、お稲荷さんにお詫びしよ。少しお賽銭をようけ目に
上げてね。ごほん、お稲荷さん、あいすみません。あの時は、ちょいとした出来心でございんすから
。どうぞひとつご勘弁をお願い…。
どうぞ、あの、あの、ピイと裂くのだけは、ひとつご勘弁を。お詫び参りに参りました。(祈る?)
…兎に角これで、お稲荷さんの方は何とかお詫びをしたけれども、今度は狐だよな。ええと、
どっかにいるんだよな、狐が。弱っちゃったなあ、こりゃ。ああ〜段々暗くなるしなあ。
神主(かんぬし)さんに聞いてみようかな。あのぉ、ちょっと伺います」
「はいはい、何ですな」
「あの、狐の穴はどの辺にあるでしょぉ?」
「お使い姫(しめ)じゃか? この裏手へ廻りなさい。
お使い姫(しめ)の穴がいくらもありますで」
「さようですか、ありがとうござんす。・・・暗いね、こりゃ。ええ? 
そういえば何か方々(ほうぼう)から狐の臭いがするような気がするな。どこだろうな、このど…
あるある。随分、穴があるねえ、こりゃ。一軒一軒訪ねて行くのはおかしいなあ。どうしようかな、
これ。ど…ああ〜、子狐が出てきた。可愛いな、あの子狐に聞いてみよ。もしもし、もしもし。
ああ、穴に入っちゃ、穴に入っちゃダメダメダメ。えへへ〜えへ。恐く無いでしょ?
にぃ〜(※笑顔か)恐くない。ねっ、よしよしよし。お坊ちゃんだか…お嬢ちゃんだか、
知れません
けれども、いいお毛並みですな。つやつやとして、えへへ。え? いえあの、決して怪しいこたぁ
ありません。あの、奥の方で、どの穴か何かで、うなっている声が聞こえますけれども、
坊ちゃんの穴ですか? ああ〜(子狐が頷いたので、あ、そうなの?と頷く声か)、
奥にうなってるの、誰です。おかあさん。ああ、どうしたの? うん、昼間、悪い人間に
騙されて。扇屋で酷い目に遭った。あ、ふふっ、ごめんなさいね。その悪い人間てえの、
おじちゃんなの。ああっと、逃げなくたっていいの、逃げなくたって。お詫びに来たの。
ごめんなさいね。え、よく謝っといて。ね? で、人間がうんとお辞儀してたって、そお言って。
それからね、つまんないものだけど、坊やにあげるから。こっちに来(こ)なくたってもいいよ。
放ってあげるから。いいかい? し【ひ】のふのみぃ〜〜〜〜っと。
ああ(嬉しそうに)、くわえて入って行っちゃった。可愛いもんだな。
はあ〜、これで良かった。
「・・・何をしてるんだよ、うるさいね、この子はっ。お母さんは、人間に、うんとぶたれてね、
気分が悪いんだから、静かにしておくれよ、本当に」
「あのね。ひ、昼間、お母さんを騙した人間ってえのね、今そこに来たよ」
「はっ…! あいつ、来たかい? はあ〜、ずうずうしいね」
「謝ってた、ぺこぺこぺこぺこ。ごめんなさい、ごめんなさいって。でね、あれはね、
ちょいとした間違いだったんだって。おかあさんによく謝ってちょうだいって。
ぺこぺこ頭下げてたよ。
あたいのこと、いいお毛並みだって褒めてた」
「油断すんじゃないよっ、それが人間の手なんだからね。いいかい、人間ってえのは恐ろしいよ。
口車に乗るんじゃないよ。外に出るんじゃない」
「でね、これね、つまんないもんだけれどもってんでね、お土産、あたいにくれたけれども」
「あらぁ、何でしょ」
「開けてみようか? 」
「ちょいとお待ちよ。近頃の人間てえのは、油断がならないからね。(母狐が指を舐めて眉を湿らせる仕草があったらしい)
…開けてごらん」
「…はっ、あっ、ぼた餅だっ、美味しそうだな」
「食べちゃいけないよ! 馬の糞(ふん)かもしれない」(サゲ) 




テキストページに戻る

トップページに戻る




初午…はつうま。2月の初めの午の日。稲荷神社に参る吉日とされた。
音なし川…JR鶯谷駅から王子まで線路沿いに流れていたらしいが、現在は下水道となり、地図上からは見えない。
口取り…口取り肴の略か。饗膳(きょうぜん)で吸い物とともに、最初に出す皿盛り物。子どもに上げるよう言っていることから、扇屋の卵焼きは甘い味付けであったらしい。


【稲叢(いなむら)】
刈り取った稲を乾燥させるために野外に積み上げたもの。
【なまえの?】としていたが、
ご指摘があり訂正した言葉。
【捻(ひね)った】
【湿った】としていたが、
ご指摘があり訂正した言葉。
【こう、】ふっとい尻尾が…
【こいふっとい尻尾が…】としていたが、
ご指摘があり訂正した言葉。
【ひのふのみ】
【しのろくのみ】としていたが、
ご指摘があり訂正した言葉。
発音表記では「しのふのみ」。
江戸弁は「ひ」を「し」と発音する。
=ひいふうみい、で
「1の2の3」という意味。

【うざってえ】
【うさせやがって?】としていたが、
ご指摘があり訂正した言葉。

 ピーマさん、有難うございました!
inserted by FC2 system