うどんや
(十代目 金原亭 馬生)
 


「えーこれから、あー寒さがこう、ずっと深くなってまいりますと、
こー何と申しますか、あたたかい召し上がりもんが何よりでございますな。
えー今、あのー、夜、一杯呑んで好い心持ちになって歩いておりましても、
なかなか、いい、その食べものが少なくなりまして。店はみんな閉めちまうし。
ですから、あのーどしても、ええ、食べにくい。ね。あるのは何かホットドックですとか、
うー、から、まあ、ラーメンですとか、から、あの、焼き芋ですとか、
何か胸のやけそうなものが多いん。昔はこう、酔って表(おもて)へ出る、と、
もちろんタクシーなんてぇのは無い時分は、歩く以外に仕方がない。ね。ですから、
行動範囲が酔っ払いてぇのは決まってまして、その、あの、ふらふらふらふら歩いていく、
途中に、えー、二八蕎麦でございますとか、から、あー鍋焼きうどんなんてぇのが、
こう出てまして、それをこう、ちょっといただいて、で、帰(かい)って寝る。
適度に酔いも発散しますし、たいへん、んー、まあ、いいもんだったそうですけれども、
えーまあ、あのー鍋焼きうどんでも、お蕎麦でも、えー、こら、あの、
夜の商売でございますから、えーあんまり大きな声は出せません。ね。
大きな声を出せないし、といって、あんまり小さいってえと人が気がつかない。
ですから、難しいもんで、傍(そば)で聞いていてもやかましくない、遠くにも聞こえるという
独特の売り声がございましてな、肩へ、この荷をあてがいまして、
「なーーーーーーーーーーーーーーーーーべやーーーーーーーーーーーーーーーーきうーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーどーーーーーーーーん。
うぅ……寒いね。ああ、うどん屋なんか寒いほうが商売が【やりぃ(?)】なんて
ぇ(言う)けど、こう寒くっちゃあいけねえな。ね。犬も歩いてる。ああ、しょうがねえ。
愚痴を言っちゃいけねえ商売ってえのはそういうもんじゃねえけどな。
ま、ひと回りして帰(けえ)ろ。寒い。なーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーべやーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーきうーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーど、……こら、いけねえな。向こうから
酔っぱらいが来た。酔っ払いに絡まれると商売にならねえ。脇ぃ避けてやりすごそう」
「♪牡丹はー持たねどぉー越後のー獅子ぃは、って来たな、うどん屋。♪つつーん、つん、つつつつつんつん、エンヤーとんとこ」
「ちょっと待ってください。ちょっと待ってください。あの、合いの手あわせて
振らないでください! おお、こぼれるから、こぼ、ちょちょちょ、ひっくり返し、おお、
おろします、おろ、おろしますよ。……困るねえ、もし、しっくり返したら、
どうなるんす、商売にならないでしょ。ほんとに困りますね」
「すいません、悪かった。俺が悪かった。さ、おめえの言うとおりだ。
商売(しょうべえ)もん、悪かった。まあ、勘弁してくれ。な、な、勘弁してくれ。
「ま、まあ、いい…いいですよ」
「いいですよって、オレ一生懸命あやまって。ね。か、か、勘弁してくれよ。
な、勘弁してやるって言ってくれ」
「ま、まあ、まあ、ね、まあ勘弁してあげますよ」
「勘弁してくれるか。ありがと。よく勘弁してくれたな。……だけどな、うどん屋。
俺はおめえに勘弁してやるって言われるほど悪いことしたかな? 」
「だから、厭(いや)だてんですよ。あーたが言え言えって言ったから言ったんですよ」
「うー、だ、だけどお前、ほんとうに俺を勘弁してくれたか? 」
「勘弁しました」
「じゃあ、なんだって向こっぱちまきしてるんだ。え、俺にケンカを売」
「ケンカを、これは商売じょうばん、やもえずしてるんです。気になりますか?
なら、じゃ、取りましょう。へい、これでいいすか」
「そ、それが、俺イヤなんだよ。これ『商売じょうばんやもえずしております』。それで、
いいんだよ。と、俺のほうは『ああ、そうか』で終わっちゃう。
『気になりますか? じゃあ、取りましょう』。俺、ヤァーな心持ちになる」
「なるほど、そら、理屈ですな。じゃ、へい、締めました」
「せっかく取ったものをすることはない」
「もうねえ、いー、勘弁してくださいよ」
「うーそう」
「いいご機嫌で」
「いいご機嫌にも悪いご機嫌にもないんだ。おめえにね、ちょいと頼みてえことがあるが聞いてくれっか? 」
「なんすか」
「おらね、少し長く歩きすぎてね、手がかじかんでる。痛いくらいだ。
すまないけど、ちょっと、その火にあたらせてくれねえか」
「おお、そうですか。ええ、いいですよ。今夜また冷えますからね。
今、火を立てましょう。たっぷりありますから大丈夫です。へえどうぞ、おあたんなさい」
「あた、あたらせてくれる。すまねえな。これ、いくら? あたって」
「いくらってことないですよ。タダです」
「タダ? 悪いねえ。これ火だってタダじゃ火が熾(おき)やしないもんな。
炭買ってきたり、こう、ねえ、こうやってね、フーってやったりなんかして、
フーって息吹いたりなんかしてさ。大変だよね。うん。それをタダであたらせてくれる。
お前、慈悲ぶかいな」
「それほどじゃありませんよ。ま、おあたんなさい」
「ありがと。――あぁ、ありがてえもんだね。え? この寒空で、これだけの火があるってえと。指先はこれであったまってきた。はあーあ、だけどなんだな、うどん屋の前だけれども、物騒な話だな」
「何がですか? 」
「いや何がですかって、夜夜中(よるよなか)、火ぃ持って歩いてんだからな。
……この頃このへんでボヤが多い」
「冗談いっちゃいけません。くだらないこと言っちゃいけませんよ」
「でね、ありがと。すまねえけど、もうひとつ頼みがあるんだ」
「なんです」
「水を一杯売ってくれないか」
「売るってことありませんよ。へい、おあがり下さい。えー寒(カン)の水は
体に良いってこと聞きますから。いや、汲み立てで、いい水なんですよ、この井戸は。
さ、おあがりなさい」
「ありがと。これ、いくら? 」
「タダです」
「これもタダ? 悪いねえ〜ほんとだよ。タダばっかりでね。……(チッ)は、はぁー、
うまいねえ。酔いざめの 水千両と 値が決まり。なんてね。でもね。今日、うどん屋の前だけど、
俺うれしいことがあったんだ」
「ほぉ、けっこうですな。こういう商売してますってぇと、お客さまから色んな話を聞きますがね、まあ、うれしい話なんてのは、あんまり聞きませんね。大概お客さまの
グチですよ」
「でね、俺はうれしいんだ」
「そうすか、どんな話で」
「どんな話ったって、うれしいんだよ。お前、仕立て屋の太兵衛っての知ってんだろ」
「……さあー、知りませんな」
「知ってるよぉ。顔の白いヤツなんだよ。あのね、いい男ってんじゃないけど、
愛嬌があってね、うん。で、あのね、この目のふちんとこに大きなホクロがある。
そいでね、そっからどういうわけだが毛が生えてる。で、先でこうくるっと、
とぐろを巻いてる。知ってるだろ? 」
「知りませんよ」
「そうか? いい奴なんだよ。これ。なんでいい奴かって言うとね、
人の悪口というのを言ってんのを聞いたことがない。でね、このーこの、
仕立て屋の太兵衛てぇところへね、おかみさんが来た。いいおかみさんでね。あー、
このかみさんを見て驚いたね。亭主に「つ」を返さない。お前なんだか知ってるか、これ。
え、ふつうね、自分のかみさんにね『なんだよ、しょうがないじゃないか』
なんて言うとね、大概のかみさんはね、『だって知らないでしょ! 』パッと。亭主に唾をパッと。ところが、このかみさんてぇのは、けして「つ」を返さない。ただ、『はい、はい』と。いいかみさんだった。だから仲が良い。仲が良いから、
すぐお腹が大きくなって、あかんぼが産まれた。女の子だ。可愛い子だったね。
夫婦は喜んだね。ところが人間てぇものはね、満つれば欠くるでね、うー、その、
産後の肥立ちが悪くて、そのおかみさん、死んじゃった。可哀想に。ね、俺はその時にね、
おてんと様に向かってね、怒鳴った。『やい、てんとう。なに無駄にピカピカ光って
やがんだ。こんないい夫婦に、こんな仕打ちをする奴があるか! 』って怒鳴った。
そしたらね、太兵衛はいい奴だ。『そんなこと言っちゃいけませんよ。こんな可愛い子を
置いてってくれたんです。え、これを一生懸命育てます。あいつだと思って育てます』。
友だちが『よーし、みんなでもって育ててやろうじゃねえか』。仕立て屋だよ。あかんぼが
居たんじゃ商売にならねえ。それから手の空いた者(もん)が行っちゃあ、うー、ね、こう、ね、
もらい乳して歩いたりさ、おしめ取り替えてやったり。それがね、早いもんだ。
いつの間にか大きくなって、今夜ムコを取る。俺はてめえの年を改めて、こう勘定した。
ええ? 来てくれってえから、俺行ったよ。行くってえと花嫁姿のその娘がね、
駆けだして出てきてね、俺の手を取って『おじさん、さあこちらへ、さあこちらへ』。
床の間の前に俺を座らせて、両手をつかえて、『さて、おじさん。長いこと
ありがとう存じました。お陰さまで、婿を取って親孝行ができるようになります。
これもおじさんのお陰です。ありがとう存じました』。深々と頭を下げて。
そん時に俺は何だか知らないけれどね、涙が急にぶわっと、止まんないんだよ。
止まんないんだよ、ええ? 涙ってえものは、ずいぶんあるもんだって、
俺は感心した。どっから出てくるんだか知らねえけれども、あとからいくら拭いても
出てくる。婚礼の晩に、その、おめえ、泣いちゃあ不吉だと思うから、こう、
ガブガブガブガブ呑んで、それで酔っちゃった。いい話だろ? 」
「そうですか。いい話ですな。ええ、一生懸命やってれば、そうやってまた、いいことも
あるという、ええ、いい話です」
「いい話だ。すまねえ、もう一杯水売ってくれ」
「あんまり、つべたいものを飲むと今度は体が逆に冷えてきますよ。大丈夫すか。
気をつけておあがんなさい」
「ありがと。こ、これいくら? これもタダ? すまねえな。お前には世話になるよな。うん。
…………お前、仕立て屋の太兵衛っての知ってるか」
「……ああ、えー知ってます」
「嘘だい、知らないよ」
「なんでしょう、それほどいい男じゃないけれども、愛嬌のある人で、ここんところに
大きなホクロがありまして、そっからこう毛が生えて、先でとぐろを巻いている。
そういう人。」
「知ってるよー。あぁー、い、いい奴だな、いい奴だよ。あいつは」
「ええ、人の悪口を言ったことがありませんからね」
「そ、そそそ、そそ、そうなんだよ。で、お前、あの、これね、かみさんが来たよ」
「ええ、亭主に「つ」を返さない。ねえ、なかなか居ないんすよ。あたしなんざ
朝から晩まで「つ」を返されちゃって、つばきだらけになってんですからね。ええ」
「そ、そうなんだよ。でね、お腹が大きくなって、あかんぼが産まれた」
「ええ、女の子でしたね。可愛い子でした」
「……そうそう、女の子ね。で、だけど世の中ってえのは上手くいかないもんでね。
満つれば欠くるで、その、その産後の肥立ちが悪くて、そのかみさんが」
「亡くなりましたね。気の毒でした。あーた、おてんと様に、たてついたりなんか
しましたね」
「う……よ、よく知ってるな。お前、あの近所か? じゃあ、俺が怒鳴ったのも
分かるだろ? うん、俺、怒鳴っちゃったんだよ」
「だけど、あーたがたはえらいよ。ことにあーたはえらいよね。みんなで育ててやろう
ってんで、もらい乳して歩いたり、ね。おしめを取り替えてやったり。それが早いもんで
今夜その娘さんの婚礼があったんでしょう」
「うん……、おめえの顔、見たことねえけど、あの、き、近所か? 同じ長屋か?
よく知ってんな。そーなんだよ、だから俺、行ったんだよ」
「あーたが行くってえと、飛び出してきて、あーたの手を取って『おじさん、さあ
こちらへ、さあこちらへ』。床の間の前に、あーたを座らせて、ね、両手をつかえて、
『さておじさん。長いことお世話になりました』と、深々と頭を下げたでしょ。
あーたは泣いたでしょ」
「……、……、……おめえ、今夜いたか? あすこに。うどん屋がいたかな。……う〜、い〜、ねえ、
そうそうそう、そうなんだよ。え、嬉しいんだよ。んとうに、ほんとうに嬉しいんだ。
おらぁ、今夜はもうガブガブ飲んじゃったよ。(チッ)あーっ、……おめえ、仕立て屋の
太兵衛っての知ってるか? 」
「もうよしましょうよ。キリがありませんから。えー、どうです。うどんを食べませんか」
「うどん? うどん嫌いなんだよ。いやだね。やだよ、うどんてぇのはぬるぬるしてな。
あんなもの食うやつが居るんだねっ。カァー、付き合いたくないね、そういうのと」
「そんなに、わる悪く言うことはない。……お雑煮はどうです? 」
「ケンカ売る気かよ。俺が酔っ払ってんのに、酒(さか)呑みに雑煮をすすめるって、
おら、いい」

「じゃあ、もういいんですね。はい、行ってらっしゃい」

「……、……お前、ヤな手つきしたな。なんだよ、これは。犬を追うような
手つき。あーーそうか。おう、分かった。俺、タダのものばかりアレしてるから、
おめえ、ヤな顔して、こんなことしてんだな。分かったよ、うん。じゃ、ひとつそのー、
うどん貰おうじゃねえか、うどん」
「あーた、嫌いなんでしょ」
「嫌いでも食うんだ俺は! 意地になって俺は何でもするんだ。うどんでも食うよ。
なんならお前も食う」
「あたしが食われちゃたまらない。こしらえてみましょう。食べてごらんなさい。ええ。
まずくって商売になる訳がないんです。ええ、美味しくこしらえましょうね。いえいえ、
すぐ出来るんすよ。ええ、もう。……、……どうです。いい匂いでしょ。
(パタパタパタパタ)ほら、すぐに煮立ってきましたからね。
(パタパタパタ、パン)へい、もう出来上がりです。具は少し、ね、おまけしましょう。熱いすよ。【?】すか。気をつけてくださいよ。熱いから。へい。へい。へい、おはし」
「ありがと、ありがと。(おはし)一本(し)かないよ」
「割りばしですよ」
「ああ、割りばし、割りばしね。……おお、いて」
「どうしたんです」
「割りばしで唇はさんだ」
「大丈夫ですか」
「大丈夫、まだ医者に行くほどじゃない」
「当たり前ですよ。んなことで、医者行ったってしょうがありませんよ」
「大丈夫、大丈夫。じゃあすまないけどね、おい」
「え? 」
「これ、かけ、かけるもん欲しいんだ」
「ああ、薬味ですか。ええと、七味と、それから、とんがらし、ありますが、どっちにします? 」
「じゃあ一つ、えー、とんがらしに」
「へい、お待ちどうさん。へい、どうぞ」
「……何だよこれ。竹づっぽうに入(へい)ってるのか? 」
「そうです」
「へえ、ど、どうやって出す」
「どうやって出すったって、そこにぽっちがあるでしょ。それを取って、ぱっぱと
はたいていただくと、ぱっぱと出ます」
「ふーん。ほんとか、おめえが考えたのか」
「あたしが考えたわけじゃない。うー昔からあるんですよ」
「ほんとか? で、これ取るの……(ブッ)(栓を口でくわえ地面へ吐き出す)」
「ダメだ捨てちゃ! あと、しょうがない」
「いいじゃないか、あんなちっさいの。ケチ」
「ええ? ケチじゃないんです。あと、しょうがない。まあ、暗いから分かんない」
「いいよ。これで、ばっとやると、ぱっと出るか? ほんとか? (パッ)……顔へかかった! 」
「あなたね、穴を上にしてやるから顔へかかる。穴を下にしなきゃダメですよ」
「それ、早く教えろよ。目がピリピリするじゃねえか。え? これでいいのか。
ほんとに出るか。(パッ)…おっ、出る!! 」

「出る出る。出るんですよ」

「えへ、出るよ〜。(パッ)。あ〜、ぱっと出た。(パッ)。あ〜! 出る出る。(パッ)。あはっ。梅が枝の手水鉢みたいだ。(パッ)うふっ、『♪うめがえの〜ちょうずばち〜叩いてお金(が出るならば)(歌のリズムに合わせて、とんがらしの竹筒をパッと叩く音が入る。
これ以降、歌詞なしで叩く音のみ)(パパン、パン、パン)……(パパン)……
おかわり」
「おか……。あ〜あ、みんなかけちゃった。あなた、それ、真っ赤になって、山んなっちゃった。
そら食べられません。取り替えましょう」
「な、なに、なにするん」
「食べられません」
「じゃ、なにか、おめえ食べられないもの売ってんのか」
「……いや、辛くて、ね」
「なに言ってるん。なに、から、から、辛いったって、なに言ってる。ええ、人間の
食えるもんを、俺に食えねえはずはねえんだ。ね、俺は……、真っ赤なうどんだ」
「だから、およしなさいって。食べられない」
「食べられる、食べられる。何を言ってやがんだ。【ふざけようたって?】ムダだ。
ズルルルッ……、……、……うばあ!!」
「だからおよしなさいって、ねえ、そんなものをね、ほらほら、口ゆすいで」
「うわぁーああ! (水を口に含む仕草か)…っあ、うばっー、……っはー、……はー、
……火事だー!!!」
「そういう声を出しちゃ、ほら、近所で起きるでしょうが。ああ、しょうがない。
もう帰りますか? ええ、そいじゃね、太兵衛さんの娘さんが心配してますから、
ええ、気をつけてお帰んなさいよ。まっすぐお帰りになって、おやすみないよ。ね。
……ねえ、酔っぱらいだとコレになっちゃう。あ〜あ、おやおや、もったいないね、これ。
金も取ることができない、これじゃね。よしっ、よそう。愚痴は。さ、ひと回りしよ。
ね。で、帰ろう。よけい寒くなっちゃった。なーーーーーーーーべやーーーーーーーーーーーーーーーーきうーーーーーーーーーーーーーどーーーーーん」
「ちょいと、うどん屋さん」
「へい、ありがとさんでござんす」
「今、赤ちゃんが寝たから、静かにね」
「…知らないよ、そんな。もっとも大きな声で呼ばれるとロクなことがない。
小さい声で呼んでくれなきゃいけない。ね。大きなご商店なんかでもって、今夜は冷えるし、
みんなお腹をすかしている。番頭さんが奥にナイショでもって、
みんなにうどんを食べさせよう。そういう時はね、小さい声だよ。『うどんやさーん』。
パーっと売れちゃう。そうかと思うと博打(ばくち)をやってて、
夜中になって腹へってきて、『何かあったけえものが食いてえな』。そこへうどんが、
うどん屋が通りかかる。世間をはばかって小さな声で『うどんやさーん』。
ねえ、そういうとこは、売れるんだよな。もっともこの間(あいだ)、小さな声で呼ばれて損したね。ええ?
『うどんやさーん』ってえから、『へい、どうですか?! 』。ギーって(戸が)開いてね、
『紙一枚くんねえか? 』。あら、損したね。ああいうことがある。グチを言わず行こう。
なーーーーーーーーーーーべやーーーーーーーーーーーーーーきうーーーーーーーーーーーーーーーーーーーどーーーん」
「うどん屋さん。うどん屋さん」
「……呼んでるよ、小さい声で。ああ、大きなご商店だ。これはシメたね。
悪いことばかりねえ。今度はこっちも小さな声で返事しなきゃ。
……へい、およびでございますか」
「なべ焼きを一つ下さいな」
「ひとつ、……味見だ。え、うっかり、わっと取って、まずかったらしょうがないよ。
『お前、ちょいと普段からうるさいんだろ? お前がちょっと食べてみて、
良かったら、取ろう』。……これだ。うんと旨くし【上げなきゃ】。ただ今すぐに。……お寒うございますな。
ええ、すぐ出来ますから。(パタパタパタパタ)出来ました。
へい。おあつうござんすから、お気をつけて」
「どうもありがと。フーフーフーフーハーズルルルルル。うー、フーフーフーハーズルルル。
うー、フーフーハーズルル。フーハジュルルル、フーハー……ズルルル、
ジュルっ、ふはー、ジュルっ、ジュルっ、はー。ジュルジュル。ジュル。ケホっ、どうもご馳走さま」
「ありがとうございます」
「おいくら? 」
「十六文です」
「へい」
「ありがとうございます。……旨くなかったかな。たった一杯か。
しょうがない、行こうか」
「うどん屋さん」
「へいっ」
「おまえさんも、風邪を引(し)いたのかい」

 



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「うどんや」は、上方の「かぜうどん」を明治時代に東京へ

移植したネタといわれているが、

内容は、上方の「親子酒」「替り目」「住吉駕籠」の部分も含んでいる。

酔っぱらいが「おてんと様に向かって怒鳴った」と言うのは、

ほかでは聴いたことがない。
 

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