『ローマ人の物語7〜悪名高き皇帝たち〜』からピックアップ!


ネロの時代に
コルブロという中々凄い武将がいたので、ここでご紹介したいと思います。

ローマには初代皇帝アウグストゥスの時代から(それより前かも>汗)つまり紀元0年前後くらいから「パルティア王国」という
仮想敵国がいました。そんでもって、パルティアの直ぐ隣りに「アルメニア王国」という国がありまして、
この国はパルティアと同じペルシア文化圏内でいながら、ローマが上手い事圧力をかけ、ローマ寄りの王様を擁立させるなど、
何とかかんとかローマの同盟国になっておりました。つまり、敵国パルティアとのクッション的な役割を果たしていたのです。
東方の防衛において、アルメニアは大変重要なくさび(ポジション)になっていたのでした。


パルティアという国は、世界の覇者ローマの敵と言われるだけあって、中々したたかです。ローマの皇帝が死んだり、
皇帝が若かったりすると、その隙を突いてローマの同盟国アルメニアに侵攻してくるのです。今回もネロがまだ17才くらいの若さで
皇帝になったと知って攻めてきたのですが、理由はそれだけではありませんでした。その理由が中々泣けてくる話なんです。
その時パルティアを治めていたのはヴォロゲセスという王だったのですが、彼は妾腹出にも関わらず自分に王位を譲ってくれた本腹の弟
ティリダデスに、お礼としてアルメニアの王位をプレゼントしようと思ったのです。
兄弟愛だな。
で、いざアルメニア侵攻〜。

それを知ったローマ皇帝ネロとそのブレイン役のセネカは、ゲルマニア戦線で活躍していた武将コルブロを起用し、
東方に派遣したまでは良かったのですが、何を考えたのかぺトゥスという人まで起用したのです。指揮系統の2分化。
ぺトゥスとコルブロが旧知の仲なら兎も角、これでは上手い事パルティアを押さえ込む事が出来ません。手足バラバラ!
そこでコルブロ、お手並み拝見とばかり、パルティアの西方ユーフラテス川に鉄壁の守りを作ります。

パルティアがアルメニアに侵攻する様子を静観するコルブロ


パルティア王も鉄壁に頭から突っ込むほど馬鹿ではありませんので、(塩野先生談)、
自然とアルメニアを守る北西にいたぺトゥス軍に向かいます。
・・・ぺトゥス軍、ろくに戦わずして敗北。まさかここまで勝つと思っていなかったパルティア王は万々歳です。
アルメニアの王位は弟ティリダデスがつくことになりました。

塩野先生はコルブロは全て分かっていた上でこうしたのではないかと言っております。しかし彼はいわゆる頭脳派な武将ではありません。
敵にも味方にも「厳格な武将」として人望があったらしいです。これはちょっと珍しい。
ゲルマニアという厳しい自然環境の元でずっと戦っていたコルブロは、豊かで平和な土地シリアでだらけきった兵士の猛特訓をします。
パルティアがアルメニアに侵攻してきたの目的が、ローマを潰す事ではなく、“弟へのプレゼント=アルメニア王位”だって事が
もう分かっていたので、その時間を上手く利用したのです。

猛特訓
アルメニア国境の山岳高地で天幕張り。まずテントを張るには地表を覆っている凍氷から砕きはじめます。
ローマの軍装は両手両足むき出しなのです。凍傷者続出。夜間の歩哨中に凍死。よって脱落者続出。
コルブロ流マイルールブックその一
遅刻は厳禁。他の軍団では二度目まで許されたのに、一度目から罰が科された。
その二
軍団旗を捨てて逃げたら即死刑。
その三
脱走兵は許しません。他の軍団では脱走して帰ってきたら許されたのに、コルブロ軍では帰ってきても死刑。

・・・この猛特訓の結果、春になる頃には、アンティオキア(シリアの都市名)暮らしでだらけきっていた兵士たちまでもが、
精鋭の名に値する戦士に変貌していたのである。(塩野先生談)


猛特訓の甲斐あってか、コルブロ軍のアルメニア侵攻は大成功。塩野先生はブルドーザーとかいっていた様な気がする。
アルメニアは結局、またまたローマ寄りの王を立てる事にしました。ネロ…また同じこと繰り返す気だったんだな…。
1年も経たずにアルメニアは破綻。またもやパルティアvsローマになります。ここでネロはまた指揮系統の2分化をしてしまい、
大失敗をして、やっとコルブロに「東方に於ける」絶対指揮権を明け渡します。絶対指揮権は皇帝の証なんで、
他人に渡したくなかったんですね。これでやっとコルブロはお上の意見を聞かずに、自分の采配で東方を治めれば良い事になりました。

コルブロの凄い所は、「自分なりにやれ」と言われて本当に彼なりにやったことです。ローマ市民も皇帝もパルティア王も皆
彼に一本取られたって事になるのですが、その時は、「相手を負かした」という余りの嬉しさにコルブロの戦法なんてどうでも
良くなったらしいです。

一言で言えば、コルブロは軍事ではなく外交戦略でパルティアを抑えたのです。
アルメニアの王にパルティアの王弟を立てる。
(これでパルティアの顔は立つわけです)
アルメニア王になるには、ローマ皇帝による戴冠式を行う。
(ローマにとって見ればパルティアの王弟をひざまずかせてアルメニア国を譲る事になるのです)
パルティア王ヴォロゲセスは弟にローマまで行かすのには不安でしたが、コルブロに、ローマ皇帝の前でも、
弟がローマの従臣の扱いを受けないよう約束を取らせて、弟ティリダデスをローマへ向かわせる事をオッケーしたのでした。

これはコルブロが8年もの間、アルメニアとパルティアの国情を観察し、そして時に信頼関係を築けるほどの行動をした
(約束を守る証に娘を人質に出したり)からなんですね。彼はローマの敵から全く信頼されていた。

このコルブロの提案は、3つの国の人が納得し、歓迎したからよかったんですが、まあよくよく考えれば、
ローマはアウグストゥスが定めた軍事戦略(アルメニアにはローマ寄りの王を立てる事)を諦めて、
パルティアの王弟を立てることになってしまったし、
パルティアはパルティアで、アルメニアに侵攻して負けたし、王弟はアルメニア王についたけど、
結局アルメニアはローマの同盟国におさまっちゃったんですよね。

まあ、これでしばしの平和が得られたから良かったんじゃないですか。

ちなみにコルブロはその後、ネロ殺害を企てたとして、確たる証拠も無いまま自死の運命をたどる事になりました。ネロめ!!



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