淵に佇めば「貝の記憶」


もう大分昔の話だが、一度だけ仲間に連れられて海へ行ったことがある。
無人島の探索だか何だか詳しい事は忘れたが、取り合えず、乗船する事だけは頑として断わった。
仲間が去ってしまった後、帰りを待つ私に漁師は料理を振舞ってくれた。恐らく仲間が私の食事の世話を
頼んだのだろう。ただっ広い青い海が、一面闇に沈み、小波だけが聞こえる漁師小屋で私は
初めて貝の死骸を口にした。肝のじゃりじゃりとした食感が舌に残り、後は塩辛さだけしか覚えていない。
食事をする事を諦めた私は、何気なく、湯気立つ鍋の中を覗き込んだ。
汁気は殆ど底をつき、かさの低いスープに浸かって貝がカタカタやかましく音を立てている。
貝の数も残り僅かという中で、いくつかの貝が口を閉ざしたままである事に気付いた私は、漁師に
その事について尋ねてみた。
「そいつは食えねえんだ。もとから中身が死んじまってるんでね。だから蓋が開かねえ」
私は口を閉ざしたままの貝をじっと見つめた。
何と不可思議な奴。
口を閉ざしたその姿が、私は死んでいるのだと、もう食えない身体なんだと言い表しているなんて。
その事は、翌日もう忘れていた。
仲間が帰還し上陸するまでの数日間、私はずっと空腹を満たす方法を考えねばならなかったので。

それから数年経ったある日、その記憶は突如として蘇った。
仲間、いや人間に裏切られ身体を傷つけられたその時だ。薄らぐ意識の中で、倒れた私の身体に
森の主の声がかかる。お前にもう一度命を与えてやろう、と。
人間を深く憎むなら、その力を頼りに今一度蘇れ、と。
傷つけられた痛みが、人間への憎悪へと瞬時に変わった時、気がつけば私は大樹の元に立っていた。
生き恥を晒したまま生きるくらいなら、あの時死んでしまえば良かったのにと、幾度も思ったが、
どうやら私の尊厳よりも、私の身体の、生に対する執着の方が勝ったらしい。
悲しく惨めな私は、生ある身体を持ちながらも、心も身体も、まるで大きな空洞が空いた様に
からっぽになってしまった。人間へ対する憎悪さえ、小さくしてしまうほどに。
もう過ぎてしまった事なんだと。
信じてしまった自分が悪かったのだと。
裏切られたという思いが沸々と湧き出るのは、大きな“期待”を知らず知らずの内に持ってしまった所為だと。
その時、私は貝になりたいと思った。
雄弁にもの語る死体になってしまいたかった。
私は何も持ちません。
私は何も持ちません。
私は何も・・・

死を望みながら、且つ、己の思いを伝えようとは随分おごがましい考えであると思う。
それも性だから仕方のない事だと、そう思えるようになるのは、さらに時を待たなければならない。
私は可笑しな位、気の遠くなるほど長い間、「貝」の口を閉ざしていたのだ。
口を無理矢理こじ開けて、「死にたい」と思っている間は死んでいないのだと、そう告げたのは
まだあどけなさの残る、人間の若者だった。
彼の存在を認めるまで、また更に時を重ねなければならないのだが…。

気の長くなるような話で申し訳ない。
この続きはまた今度。



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