戦前の上方落語「崇徳院」に登場する「玉造のよろかん」とは何か<2>

「落語「崇徳院」のあらまし」

 名も知らぬお嬢さんに一目惚れした若旦那が寝込んでしまう。熊五郎は親旦那からお嬢さん探しを依頼され、妻の知恵を借りて奔走する。最後には探していた相手が見つかるというのが、この噺の大まかな流れだ。

 演目名は、お嬢さんを探す唯一の手がかりが百人一首の崇徳院の歌というところから来ている。

 原話は今のところ発見されていないが、上方落語中興の祖・初代桂文治(1173-1813)の作と言い伝えられており、江戸時代から存在する古い噺には違いないようだ。

 東京では戦後、三代目桂三木助が得意とし、裾野を広げた。上方も一門を問わず演じ手の多い噺である。

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 落語「崇徳院」の最古の速記は『はなし』(明治40年)に掲載された。二代目桂三木助(※3)が口演。この本は現在入手困難となっている。ただし『傑作落語 豆たぬき』(※4)(明治43年)に同演者の速記が収録されており、こちらは読むことが出来る。

 次に古い「崇徳院」速記は『滑稽落語名人腹鼓』(大正9年)に掲載された。四代目笑福亭松鶴(※5)が口演。この本も閲覧が困難だが、『落語全集』(昭和4年)に速記が再録されており、読むことが出来る。

 二人の「崇徳院」速記は、言葉遣いがやや異なるだけで内容そのものに大きな差は無い。 

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<注釈>

※3 二代目桂三木助(明治17年(1884)昭和18年(1943))。9才の時、二代目桂南光(のちの仁左衛門)に弟子入り。「持ちネタが多く(略)本格的な芸風で人気を得ていた実力者であった」。

※4 『傑作落語 豆たぬき』は、既刊『はなし【噺家名】』『豆たぬき【噺家名】』シリーズで好評を得た速記をいくつか集めた再録本に近い速記本だったと考えられる。

※5 四代目笑福亭松鶴(明治2年(1869)~昭和17年(1942))。24才の時、三代目松鶴に入門。明治40年、四代目松鶴を襲名した。昭和10年には弟子の二代目枝鶴に松鶴の名を譲り、松翁と名乗った。人気があった噺家。

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参考文献

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