戦前の上方落語「崇徳院」に登場する「玉造のよろかん」とは何か<4>

「玉造と猫間川と万屋小兵衛」

 玉造は明治30年、大阪市東区に編入されるまで大阪市外だった。

 安政3年の水帳(みずちょう・当時の土地台帳)には、町屋が広い田畑を囲うように建っている。伊勢参りの旅人や、玉造稲荷神社の参拝者が訪れる自然豊かな宿屋町だった。

 しかし玉造は衰退した時期があった。玉造の東部を流れる猫間川の水量が減ったからだ。商人たちは水運の便を求めて猫間川の川さらえと新たな水路開削の必要性を奉行所に訴えた。

 川さらえと開削には公費が投じられ、万屋は私費を投じて事業を助けた。作業には人足が雇われたが、ご利益ある「砂もち」をしようと大坂内外から大勢の人々が集まり、臨時の祭と化した。(※7)

 工期を終えた猫間川の堤には桜や紅葉樹が植えられ、西岸には四季を通じて楽しめる花畑が作られた。それらは玉造の新名所となったようだ。

 万屋小兵衛の家の財力は川さらえの天保9年(1838)後に増えている。文化11年(1814)の御用金は500両だったが、天保14年(1843)には御用金3000両の指定を受けるまでになった。猫間川の景観が人を呼び、商船から富を得たのだろう。

 大坂の人々は小兵衛を「猫間川の川さらえによって成功した人」と見たのではないか。

 また万屋小兵衛は佐々木春夫という歌人、国学者として知られていた。文久三年(1863)の天誅組(※8)の挙兵に際し、資金援助をしたと言われている。倒幕、尊王攘夷の思想を持った人物でもあった。 

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<注釈>

※7 猫間川の川さらえの前年は天保の大飢饉を背景に大塩平八郎の乱が起こり、大坂市中は5分の1も焼けたと言われる。人々が川さらえを祭に仕立てたのは世情不安を払拭したい気持ちの表れだったのではないか。

※8 天誅組(または天忠組)は幕末に結成された尊王倒幕の急進派。文久3年(1863)8月、幕府領大和国で挙兵し、大和五条の代官の首をはねた。しかし八月十八日の政変(幕府と朝廷を結び付けて幕政の立て直しをはかった公武合体派が、尊王攘夷派の公家・長州勢力を追放)で事態は急変、追討の諸藩兵に破れて壊滅した。

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参考文献

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