戦前の上方落語「崇徳院」に登場する「玉造のよろかん」とは何か<5>

「佐々木義亮(よしすけ)」

 佐々木春夫の息子は義亮といい、弘化2年(1854)生まれ。嘉永6年(1854)、春夫の隠居に伴い万屋小兵衛の名を継いだ。父親は歌人だが義亮は俳人となった。

 『大阪人物辞典』によると「京の南禅寺前にあったインクライン(傾斜面に台車を走らせ、荷貨を運ぶケーブルカーの如きもの)に、数百の豆腐を流すなど、意表を突いた奇趣に富む豪遊をなした」人物だったという。

 一方で、植樹による社会奉仕活動を行い、東大阪市の枚岡(ひらおか)神社に梅の苗を五万本送る発起人をつとめた。その後、玉造二軒茶屋から枚岡神社を結ぶ奈良街道沿いに梅桜楓を植え、「経済と道徳を一挙して両得(ふたつながらえ)たりとはかかる事を云(いふ)か」と当時の新聞に記されている。

 義亮の逸話の中で世間から認知されなかったものがある。明治17年、玉造の屋敷に入った夜盗7~8名を用心棒が居たとはいえ、義亮自らも日本刀で追い返したという話だ。

 これは明治12年、春夫が大阪市伏見町の屋敷に入った夜盗2名の内、1名を日本刀で斬り付け撃退した話と後に混同され、「春夫が玉造の屋敷に入った夜盗数名を斬った」と世に広まってしまった。

 「よろかんさん」と家の通り名を日常的に使っていると、地元の人間でなければ当主の区別が付かない。噺家を含む大阪市民もそうだっただろう。

 義亮は明治33年、玉造駅前に自然が残っていた時期に亡くなった。

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参考文献

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