戦前の上方落語「崇徳院」に登場する「玉造のよろかん」とは何か<6>

「大阪砲兵工廠(こうしょう)と玉造」

 明治28年、玉造駅が設置されたが、同43年に駅前商店街(のちの日の出通り商店街)が発足するまで、かなりの時間を要している。

 玉造の北部、森之宮に大阪砲兵工廠という大規模な軍需工場があった。明治3年から造兵司として置かれ、同12年に大阪砲兵工廠と改称。明治時代以降、昭和20年の空襲に遭うまで、全ての日本の戦時に前線へ兵器を送り続けた。日本近代工業の発展に大きく関わったという。

 明治37~38年の日露戦争以前、大阪砲兵工廠の職工の多くは徒歩で通勤していたようだ。明治33年の職工数は3524名。森之宮~玉造駅沿線間の町(森之宮東ノ町、同西ノ町、東阪町、玉堀町、北國分町)の人口は、玉造駅前の町(南玉造町、中道黒門町、中道唐居町)の人口よりも多い。

玉造の人口表を参照(別窓で開きます)】

 ところが、日露戦争が始まると徒歩通勤の職工だけでは人数が足らなくなってきた。明治38年の職工数は約2万人。その頃から職工街は玉造駅周辺まで南伸し、大阪砲兵工廠は駅通勤の職工を雇い始めたのではないか。それが玉造駅前の発展に繋がったと考えられる。(※9)

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<注釈>                                                                  

 ※9 玉造には大阪砲兵工廠以外の小中規模工場に通う職工も数多く住んでいたようだ。明治20年代から大阪は工業によって経済が立ち直り始め、玉造のような大阪市の境界域にある町や市外地に工場が建った。        

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参考文献

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