戦前の上方落語「崇徳院」に登場する「玉造のよろかん」とは何か<7

「玉造駅前の発展」

 明治43年2月、玉造駅前に歌舞伎の上演も可能な玉造座が竣工した。これを機に駅前商店街が形成され始める。

 以降、駅前商店街やその周辺に次々と演芸場【赤玉館】(※10)や映画館【城東館、三光館】が建てられた。明治43年だけで計4つの娯楽場が玉造に生まれている。

 落語「崇徳院」の速記が出たのは明治40年だ。玉造のよろかんを落語に登場させる工夫を思いついた噺家は、明治37~38年の日露戦争の軍需景気に沸く玉造の様子(※11)を見聞きしていた可能性が高い。

 噺家は玉造駅前の賑わいを予期するかのように「よろかん」を落語に登場させ、聴き手(客)の気を引いていたと言える。

 では、その頃(明治時代末期)、佐々木義亮の娘婿・計次郎の所得はどれほどあったのだろうか。調べてみると意外な事実が判明した。

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<注釈>                                                                    

※10 赤玉館は大正2年に火災で焼失した。玉造の演芸場や映画館については『玉造 日の出通り三光館』(平成7年)が詳しいが、赤玉館の記載は無い。

※11 玉造駅前商店街以前に存在していた商店街は、稲荷前商店街。またいつ頃発足したのか不明だが、玉堀町商店街も駅前商店街の北にあった。

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参考文献

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