戦前の上方落語「崇徳院」に登場する「玉造のよろかん」とは何か<8

「落語の中のよろかんと佐々木計次郎」

 佐々木計次郎は旧姓を浅田と言い、明治7年(1874)奈良県に生まれた。同33年、京都帝国大学理工科を卒業。大学院に進み、渡米、カンサス市に勤務。帰国後、同41年まで大阪市の水道技師として働いていた。帰国後と思われるが明治37年、佐々木家に入り家督を継いでいる。

 妻の秀子(義亮の次女)と共に大阪城東~城南の大地主となった計次郎は、大正4年から同12年まで大阪府会議員(内8年~10年は副議長)をつとめた。

 計次郎が府政に進出した時期は、玉造駅前商店街の形成が進みつつあった頃だろうが、落語「崇徳院」の速記の発行は明治40年で時代が全く噛み合っていない。

 明治41年の『日本紳士録』には計次郎の所得税額が68円と載っている。同45年には240円と飛躍的に伸びるものの、大正、昭和期の方が格段に高額だ。

佐々木計次郎の所得額の推移(別窓で開きます)】

 何故、計次郎の所得が少ない時期から落語に玉造のよろかんが登場したのだろうか。

 噺家を含む大阪市民は、日露戦争の軍需景気に沸く玉造の様子を見聞きして「よろかんさんもさぞ儲かっているに違いない」と思い込んでしまったのではないか。

 戦前の人物録の中には、計次郎が佐々木家を再興したと記載するものがある。義亮の没年は明治33年、計次郎が家督を継いだのは同37年だ。当主が4年不在だったか短命に終わったと考えられる。

 明治37年に佐々木家に入った計次郎は、直前もしくは直後に起こった日露戦争の軍需景気の波に乗り遅れた。しかし噺家を含む大阪市民はそれを知らなかったようだ。そうでなければ、鴻池の対の商家として落語に登場するはずがない。

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参考文献

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