戦前の上方落語「崇徳院」に登場する「玉造のよろかん」とは何か<9

「結論」

 玉造のよろかんとは何かという問いに対しては、大阪市民が玉造の事情に詳しくないにも拘わらず「玉造といえばよろかんさん」という認識を持ち続けていた商家だと言える。佐々木春夫や義亮の時代に刷り込まれたのだろう。

 明治30年、玉造は大阪市に編入したが、それ以前から大阪市民は玉造の情報を一定量得ていた。大阪と玉造の距離の近さを示す事象だが、情報の粗さは遠さも示している。

 問題提起の内容は、1、誰が 2、いつ 3、何の目的で 落語「崇徳院」に玉造のよろかんを入れたのか、というものだった。

 1、「誰が」 二代目桂三木助と四代目笑福亭松鶴の「崇徳院」速記は殆ど変らない。そして四代目松鶴は二代目三木助より15才ほど年上だ。二代目三木助の方が早く「崇徳院」速記を出しているが、噺家が15才年長の噺家にネタ(噺)を教えるとは考えにくい。

 四代目松鶴が二代目三木助に「崇徳院」を教えたか、二人が共通の師匠に教わったかのどちらかだろう。

 共通の師匠が居たとすれば、二代目三木助の師・二代目桂南光(※12)の可能性が高い。四代目松鶴は30代の一時期、南光の弟弟子だった。

 2、「いつ」 玉造の人口(特に大阪砲兵工廠の職工)が急増した頃と考えられる。日露戦争が始まった明治37年以降~「崇徳院」が速記化される以前の同40年の間と推測する。

 3、「何の目的で」 時事ネタで客の気を引くためである。

・・・

 明治時代の噺家が玉造の商家を落語に登場させた理由は、日露戦争の軍需景気によって玉造の人口が増え、世間の注目が集まっていたからではないか、という推測しかない状態だ。これを裏付ける資料を見つけることと、他に玉造の商家を出した理由があるのかどうか、同時代の演芸速記や新聞等を読んで探ることを今後の課題としたい。

・・・

 昭和20年、大阪市は度重なる空襲を受け、森之宮~玉造も罹災した。玉造のよろかんという言葉も町と共に失われた感がある。戦後、佐々木家は玉造の地を離れたようだ。同23年、五代目笑福亭松鶴の「崇徳院」は、よろかんも鴻池善次郎も出て来ない内容になっていた。

 現在、佐々木家がよろかんと呼ばれていたことを知るものは殆ど居ない。玉造の歴史を知る上で重要な手掛かりとなる商家だ。再評価される日を切に願うばかりである。

(終わり)

------------------------------------------------------------------------------------------

<注釈>

※12 二代目桂南光(安政元年(1854)明治44年(1911))。二代目桂文枝の弟子。十八番は「三十石」の船唄で、人情噺にも長じた。明治40年、贔屓にしていた歌舞伎役者が仁左衛門を襲名した際、自身も仁左衛門と改名した。                 

<8>へ

目次へ

参考文献

テキストページへ戻る

jaimoトップページへ戻る

inserted by FC2 system